教育
2012年06月22日
ピアノ教育における”自立(自分の足で立って歩く)”とは?
これは予約投稿です。m(__)m
21日からパソコンへ向かえません。
メールやツィート、ブログコメントへのレスは、
24日以降になりますので、ご了承ください。
昨日、ピアノ教育における”自律”の記事で、
「音楽表現する上での”自立”に立脚していなければ、
”自律”とは言えないのでは、と感じます。」と書きました。
自律の前に自立なのです。
自律には段階があると書きましたが、
私はこの”自立”にも段階があると考えています。
第1段階は、自立できるようになるための土台、
土壌を作るということです。
幼児教育における”自由保育”は、
この考え方の上に成り立っています。
では、ピアノ教育における自立の基礎とは?
私は、ドレミという音の並びを覚えるだとか、
鍵盤を把握するだとか、
楽譜の読み方を覚えるだとかいうことにあるのではないと考えています。
正直、私は3,4歳からピアノを始めることに、
大きな疑問を抱いているのです。
音楽というものを体感したことがなく、
まだその子の体の中に音楽が息づいていない段階で、
ドレミを教えることに危機感を覚えます。
また、幼児の体の発達の一番最後にくる指を使う楽器がピアノですが、
指にまで発達が及んでいない段階で、
いきなりピアノへ向わせることへも抵抗があります。
こういう子どもはピアノを弾く楽しさよりも、
体が思うように動かない難しさの方にてこずり、
音楽を味わいながら弾くことなど無理でしょう。
表現する楽しさよりも、戸惑いの方が大きくなってしまう。
導入としてあまりいい条件とは思えません。
もちろん、全ての3,4歳が不向きだというわけではありません。
私の友人の子どもで、
3歳ですでにピアノを習う適齢期を迎えていると感じた子がいます。
友人は歌が大好きで音楽的。
この子の生活は毎日音楽に満ち溢れていました。
この子の内部には、すでに音楽が息づいていたのです。
また、この子は3歳になるかならないかで円を描いていました。
かなり複雑な絵を描くようになっていたのです。
これは体の発達が指にまで及んでいる、ということです。
心も体も、ピアノを始めるのに丁度良い時期にきていました。
このように、すべての3、4歳児が、
ピアノを始める適齢期ではないとは言い切れません。
その子の中に音楽が息づき、体の発達が指にまで及んでいるのであれば、
それはピアノを始める適齢期として考えてよい、と私は判断します。
私が考えるピアノ教育における自立の基礎は、
このピアノを習い始める前の段階のことです。
幼児教育学では、外で思いっきり子どもを遊ばせることに重点を置きます。
ルールは与えられるものではなく、
自分たちで試行錯誤しながら作り上げるものです。
重要なことは自分たちの力で工夫するということ。
誰かに教わるのではなく、自分の能力を使うということです。
こう遊びなさい、とルールを教え込んでも自立心は養えません。
自立は、自分の頭で試行錯誤し、考えるということです。
幼児期にこういった基礎を十分に培った子は、
あらゆる局面で工夫する、という発想力を持ちます。
これは、昨日お話した練習方法への発想にも繋がることですよね。
自分で考えるという基礎は、この幼児期に培われるものなのです。
私はピアノ教室の門をくぐる前に、
たくさん外で遊んでもらいたいと思っています。
遊びの中で試行錯誤することを覚え、
遊びの中で体をコントロールする術を学ぶ。
体のコントロールは自律に役立ちます。
体と心は一心同体。表と裏と思うからです。
体をコントロールするということは、
心をコントロールするということ。
その中で、ピアノを習うつもりでいるのであれば、
手遊び歌などで音楽に親しんでいてもらいたい。
体のコントロールも、外で遊ぶだけでなく、
音楽が付随した形でのコントロールを経験していてもらいたい。
音楽に合わせて体全体を動かす、踊る、飛び跳ねる!
こういう経験が、ピアノに向った時の自己表現に結びつくからです。
このような経験を積んでピアノを習い始めたピアノ導入期。
このとき多くのピアノ指導者は、ある悩みに直面します。
ピアノを弾く以上は、教えなければならないことがあるからです。
しかし、音楽表現は自由であるべきですし、
自立とは、束縛されない自己の自由でもあります。
特に私は、自由保育という考え方に大学4年間浸りまくったわけで、
教えなければならないことと自由との狭間で、
かなり悩むことになりました。
一体、音楽における”自立”とは何なのか?
ピアノを習い始めたばかりの子に、
「自由に表現して弾いてごらん。」というのは、
実は子どもにとってかなり酷なことです。
子どもは真っ白な画用紙を与えられ、
「自由に描いてごらん」と言われるのが苦手です。
そこに1本でもいい、線が引かれていたら、
それにつられて自由に描きやすい。
もしくは、真っ白ではなく色つきの画用紙であれば、
随分描きやすくなるものです。
ピアノにも似たようなことが言えます。
この絵を見て、感じたままに自由に弾いてごらんと言ったところで、
生徒さんは混乱に陥り、悩むばかり。
1音すら弾くことができない・・・なんていう子もいます。
自由って、何の引き出しも持っていない人間にとっては、
不自由でしかないんですよね。
世の中には天才と呼ばれる人がいます。
彼らは教えられるまでもなく音の高低を理解し、
その高低と音の並びや鍵盤の把握が、
これまた教えられるまでもなく理解できているのです。
指のコントロールがまだ思うようにいかなかったとしても、
彼らは自由にピアノを弾くことができる。
鍵盤上の音の高低を自在に操ることができるのです。
天才というほどではないにしても、
ピアノを指導していると素質のある子にしばしば出会います。
こういう子は1度教えてあげただけで、
音の高低、音の並び、鍵盤の把握、音符が一致します。
耳がいいので、聴き知った曲を鍵盤で探り弾きすることもできます。
しかし、それが音楽表現という引き出しに繋がるかというと、
そこは天才とは違うんですよね。
音楽表現とは?ということを教えてあげないと、
自由に音楽で自己表現できるようにはなかなかなりません。
ピアノ導入期、この不自由な世界から生徒さんを自由な世界に導くには、
音の並び、鍵盤の把握、音の高低、
楽譜の読み方などを伝えなければならなくなります。
このことで生徒さんたちは、
音楽の成り立ちを知ることになるわけです。
(少なくとも西洋音楽の成り立ちを知ることになります。)
しかし、ここにはまだ”表現”という自由がありません。
音楽で表現するとはどういうことなのか?という引き出しが、
生徒さんの中にはまだないからです。
例えば、習い始めたばかりの子どもには、
大きな音と小さな音、という発想がありません。
この存在を知らせてあげると、
子どもたちは生き生きと楽しそうに、大きな音と小さな音を味わい始めます。
音量による表現の引き出しには、
だんだん大きく、だんだん小さくというものから、
左右の音の大きさの違い・・・といったものにまで及びますが、
これら表現の引き出しが増えると、
「ここはどの表現でいこうかな?」という選択の自由が生まれます。
このように、私は音楽表現の自由には、
「どの表現でいこう?」と選択できるだけの引き出しが必要と思うのです。
表現の引き出しが全くないのに、
自由に音で表現するなんて無理ですよね。
文章を書くときに比喩というものを知っている人と、
そういう引き出しのない人との間では、
表現の自由に大きな差が生まれることでしょう。
比喩表現できる人には「ここは比喩でいこうか、どうしようか。」と、
選択の自由が生まれる。
比喩を使いこなせない人は比喩を選択することなどできないので、
比喩を使わない方法で文章を書くしかありません。
このように、自由に表現するためには、
知っておいた方がいいことが山ほどあります。
私がここでいう自立へ導くための指導とは、
生徒さんがその引き出しを使いこなせるようになるための
道筋を作ってあげるというものです。
この引き出しを使いなさいと人から指示されなければ、
引き出しを使えないのでは意味がありません。
引き出しの存在を知っているというだけでは、自由にはなれないのです。
自立へ導くには、多くの段階を経なければならないと思います。
まずは、引き出しの存在を知ること。
次に、その引き出しの使い方を知ること。
そして、その引き出しの意味を知ることです。
さらにクラシック音楽に限定すると、
楽譜の読み込み能力というものがここに加わります。
音楽表現の自由には、いくつか種類があると思うんですよ。
クラシック音楽の演奏家に求められるものは再現音楽です。
コンポーザーピアニスト(自作の曲を自演する)とは異なります。
コンポーザーピアニストは、
作曲するための引き出しを学ばなければならないでしょうし、
その引き出しを使いこなせるようにならなければ、
自由に作曲できるようにはならないでしょう。
しかし、再現音楽に必要な楽譜を読み込む能力は、
クラシック音楽の演奏家ほどは求められません。
再現音楽を担う演奏家は、
作曲をするための引き出しや、その引き出しの使い方を学ぶ以上に、
楽譜を読み込む能力というものが求められます。
私は、どちらの演奏家を目指すかによって、
学ばなければならないことのバランスが変わってくると思うのです。
コンポーザーピアニストにしても、再現音楽の演奏家にしても、
重なる引き出しは多くあります。
しかし、バランスが違ってくる。
コンポーザーピアニストに求められる引き出しの量と、
再現音楽の演奏家に求められる引き出しの量を、
どちらも同量に併せ持つことのできる人は、
本当に才能のある、キャパシティの大きい一部の人だけと思います。
ということで、ここでは再現音楽を担う演奏家にとっての、
音楽的自立に限定してお話を進めていきますが、
目の前に弾くべき楽譜があり、
それが自分の楽曲でないというだけで、
自由ではないかというと、そんなことはありません。
そこには多くの選択の自由があり、
演奏者は感銘を受ける偉大な作曲家の多くの作品に触れることで、
自己表現することが可能なのです。
しかし、そこには楽譜を読み込む能力というものが必要になってきます。
それは自由に表現するためには必要不可欠のもの。
この能力がないと自由になれない、そういうたぐいのものです。
作曲家はこう演奏してもらいたいということを、
出来得る限り楽譜に書き込んでいます。
しかし、もちろん記号ですから全てを書き込めるはずなどありません。
作曲家と演奏家の間には、暗黙の了解というものが存在している感じます。
同じ言語を使う、ということです。
この程度のことは書かなくても、演奏する人間にはわかるだろう、
と作曲家が判断したことは、楽譜には記入されません。
例えば、ワルツやポロネーズ。
作曲家がわざわざワルツやポロネーズというダンスについて
説明してくれることはありません。
ワルツはこういう踊りですよ、
ポロネーズはこういう踊りですよ、
こんなノリで、こんな風に踊るんです。
なんて楽譜には書いてありません。
例えば、拍子感。
拍子ってこういうノリのことをいうんですよ、
なんて当たり前の基礎について作曲家が楽譜に書き込むことはありません。
なにより拍子感というのは体感するものであり、
記号にすることなど無理なものでもあります。
作曲家は、2拍子と書けば演奏者はこういうノリで演奏するだろう、
4拍子と書けば演奏者はこういうノリで演奏するだろうと理解した上で、
2拍子と4拍子を書き分けるのです。
また、時代によって様式感というものも変わってきます。
例えば、バッハは楽譜に何も書き込んでいません。
当時、作曲する人間と演奏する人間は同一なことがほとんどでしたし、
チェンバロ用として作曲された曲が合奏曲として演奏されたり、
合奏曲用として作曲された曲がチェンバロで演奏されたりと、
編曲するのは当たり前のことで、
装飾音符もある程度ルールはあるにしろ、
演奏者に与えられた自由でした。
ところが、ベートーヴェンではこうはいきません。
ベートーヴェンには「こう弾いてくれ!」という強い思いがありました。
だから演奏者に誤解を与えないように、
こう演奏してほしいという記号をたくさん書いています。
このように、知っておくことというのがたくさんあります。
バッハの様式感を知っていれば、
ああ弾こう、こう弾こう、の自由度が増します。
ベートーヴェンの個性を知ろうと思えば思うほど、
このクレッシェンドはこんな感じ、
この減7の和音はこんな響きで!と想像が膨らみます。
引き出しが多いということは、
それだけ豊かに想像できるということでもあります。
選択肢は驚くほど与えられています。
だからこそ再現音楽とはいっても、
演奏者によって演奏が異なってくるのです。
このように、大きな音と小さな音、
という音楽表現の第一歩目の引き出しから、
ここまで来たらピアノ指導者になれちゃうよ、
と思えるような引き出しまで、
音楽的自立への道のりは長いものです。
しかし、地道に一歩一歩飛び級なしで(笑)、
基礎を固めていけばいくほど自由度は高くなるのです。
音楽的自立が高まれば高まるほど、
昨日記事にした音楽的自律も高まります。
練習効果や練習のやりがい、楽しさは、
自立の高まりに比例すると私は思います。
自立していればしているほど練習は楽しい!
幼児期、小学低中学年、小学高学年、中学生。
それぞれの子の発達段階に応じた、
音楽的自立の在り方というものがあるように思います。
幼児には幼児の音楽的自立が、
小学低中学年の子には小学低中学年の子の音楽的自立が、
小学高学年の子には小学高学年の子の音楽的自立が、
中学生には中学生の音楽的自立があると思うのです。
もちろん一律同じ物差しを使うことはできませんが、
それぞれの子の中で、
徐々に音楽的自立が高まっていくよう指導していくことが、
ピアノ教育における”自立”への指導だと思うのです。
そのために、私はそれぞれの時期に、
その何年後かの音楽的自立を見越した上で指導するということを、
とても大切にしています。
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2012年06月21日
ピアノ教育における”自律(自分を律する)”とは?
これは予約投稿です。m(__)m
21日からパソコンへ向かえません。
メールやツィート、ブログコメントへのレスは、
24日以降になりますので、ご了承ください。
今日は昨日に引き続き、教育についてのお話です。
昨日の記事で、
・自律
・自立
が、私の考える人間教育だとお話しました。
では、ピアノ教育における”自律”とは?
自律は”自分を律する”と書きます。
音楽の”自律”には、
演奏する上での”律”も含まれるでしょう。
しかし、ここでは幼児期〜中学生にかけて生徒さんが直面する
”自律”について考えたいと思っています。
それは、”ピアノの練習”です。
勉強しなさい!練習しなさい!
私も子どもの頃しょっちゅう言われました。
言われていない人の方が少ないのでは?(笑)
幼児期の子どもは、自分を律するということを知りません。
あれが欲しい!となったら、何が何でも欲しい。
だから、スーパーのお菓子売り場に寝ころんで、
足をじたばたさせながら「買って〜!!」とダダをこねる。
友だちが遊んでいるおもちゃを見て「欲しい!」と思ったら、
自分を律することをせずに、
友だちの手からそのおもちゃを取り上げる。
子どもたちは、生活のさまざまな状況における、
さまざまな人間関係の中から、
自分を律するということを学んでいくのですね。
これは、ピアノ練習や勉強においても同じと思うのです。
たまたま、勉強が大好きで、ピアノが大好きで、
勉強しなさい!練習しなさい!と言われずにやる子がいたとしても、
それは、その子にとって勉強や練習というものが
自分を律することを必要とする行為ではなく、
ただやりたいからやるという欲求にもとづいた行為だからなんですよね。
ところが、多くの子どもたちにとって、
勉強することや、ピアノの練習をすることは、
自分を律さないとできない行為です。
しかし、自分を律するというのは、
周りからとやかく言われてできるようなことではないんですよね。
勉強しなさいと言えば、
素直に勉強できるようになるかというと、そう簡単にはいきません。
また、表面的に勉強していたとしても、
それが自律した行動なのかといえば、そうとも限りません。
たんにお母さんに怒られるから、先生に怒られるから、
そういう意識に立脚した行動ともとれるわけです。
自律というのは、”自分で自分を”律することなのですから、
周りからのプレッシャーに立脚していては意味がないんですよね。
よく高校デビューとか、大学デビューって聞きますね。
私の大学では大学デビューした子が、全く大学に顔を出さなくなってしまい、
卒業できる?!留年せずに済む?!という子がいました。
(彼女は無事卒業できたのだろぉか?)
たとえ、小中高と親の言うまま素直に勉強してきたとしても、
それが自律した行為でなければ、
このように自由な環境に投げ出されたとき、
自分を律することができずに、踏み外してしまうことになりかねません。
そりゃね、思春期ですから踏み外すのはアリと思うんですヨ。
何事も経験!
私も、かなぁり踏み外した人生を歩んできている身なので、
道を踏み外すな!とは思いません。
しかし、そのように踏み外した中で、
自分の人生を台無しにするようなことなく、
それを乗り越え、経験としてそれらを自分の人生の糧にするためには、
思春期までの間に”自分を律する”ということを学んでいなければならないんですよね。
少し話が横道に逸れてしまいましたが、
ピアノにおける自律した練習について。
これを生徒さんに身につけてもらうのは一苦労!
どの先生方も、どの親御さんも、
みなさんご苦労なさっている点ではないでしょうか。
もちろん、私も大っ変っ苦労します。(笑)
私は、この自律を目指すのに、
ある程度段階が必要だろうと感じています。
例えば、幼児に「練習しなさい」と言ったところで、
幼児の注意力、集中力、理解力では、
1人で練習することなど無理ですよね。
レッスンでどこを注意されたのかすら忘れてしまい、
その上、まだ楽譜が読めないなんて言ったら、
「練習ってなに?」と、練習するということがどういうことなのかすら
理解してもらうことはできません。
幼児期には、どうしても親御さんのご協力が必要になってくるものです。
小学1年生の学校の勉強も同じですよね。
学校の宿題を家で1人でできるかといったら、
学校の授業だけでは理解できなかった子などは、
宿題の解き方もわからず、集中力も持たず、
どこに注意を払って勉強するのかもわからず、
ただただ路頭に迷うだけです。
要するに、自分を律したくても、
律する方法がわからない!なんですよね。
注意力の向け方がわからない。
どこに焦点をあててピアノを練習したらよいのかわからない、ということです。
これでは楽しくもなんともない。
ただ、わけがわからないだけ、混乱するだけです。
混乱ほどやる気を削ぐものはないと思いませんか?
勉強が楽しい、ピアノが楽しいと思えるには、
「わけがわかる」という理解がどうしても必要になってきます。
幼児期に必要なことは、
練習すると弾けるようになって楽しい、という経験を積むこと。
そして、練習とはどういうことを指すのか?
それをお母さんや先生と一緒に練習する中で経験し、
理解を深めていくこと、と思います。
これが、小学4,5年生になってくると、ちょっと違ってくる。
親の付き添いなしにお友だちと遊べるようになり、
ピアノの練習より友だちと遊びたいと思うようになる。
今の子は本当に忙しい!
土曜日学校がないせいで、月〜金は5,6時限あるのが当たり前。
私が子どもの頃より学校の終わる時間が遅い、ということです。
その上、小学4年生になると、
東京の子は中学受験を思案し始めます。塾です。
こっちの塾は驚くほど忙しい。(^_^;)
仙台で育った私には考えられないようなスケジュール!
東京の子は大変です。
公立が荒れていたり、学校の先生の質が低かったりと、
進学校に興味のないご家庭の親御さんも、
中学受験を選択肢のひとつとして考え、悩まれます。
そんなこんなで家での練習が苦しくなってくる。
その上、この年齢の子は理解力も幼児期より増していますし、
精神年齢も高くなっています。
ちょっとやそっとの達成感では、
脳内からドーパミンが分泌することはなく、
脳内からドーパミンが分泌しないということは、
自分を律するだけの気力がわいてこず、
ピアノの練習から遠ざかってしまうだけ・・・。
その上、反抗期!!
先生に反抗するということはないにしても、
お母さんへの反抗はすさまじい。(笑)
練習しなさい、なぁんて言われたって、
「今やろうと思ってたのに!」とか、反論されるだけ。
そういや、私もよくこの言葉を口にしてました〜。(^_^;)
私はこの時期の生徒さんに、
「頭を使って練習する」ということを徹底させるようにしています。
自分を律する上で必要な作業に、
”頭を使う”ことがあると思うからです。
意味もなく練習してもつまらない。
意味があるから練習できるし、
練習の意味がわかっているから、
練習後の上達を実感できるんですよね。
頭を使わずに練習したって、何も身につかない。
ちょっと話が逸れますが、
先日アメトーークという番組で、
勉強しかしてこなかった芸人をやっていました。
私は、これまで自分の成績が悪いのは頭が悪いせいだと思い込んできていました。
もちろん、頭は悪いんですよ。(^_^;)
だけど、使いようによっちゃぁ、もう少し成績がよくなっていたのかもしれない。
この番組を見て、そう思ったんです。
まぁ、なんと様々な勉強方法を工夫していることか!!
成績のいい人たちは、みんな頭がいいのだとばかり思い込んでいましたが、
頭がいいだけじゃない。
みんなあれやこれやと工夫しながら、
頭を使って勉強していたんですね。
私はというと、どういう勉強方法がいいかなんてことに、
頭を使ったことなどありません!
考えてみたら、ピアノの練習だって同じじゃない!と。
効果的な練習方法、何を身につけたくて練習するのか?
自分で自分の練習すべきことを把握して、練習方法を編み出す。
こんなのピアノでは日常にしていることです。
勉強も同じだったのね!と。(笑)
私は、ピアノの練習で当たり前にしていた発想を、
勉強に生かすことができなかった。
勉強方法を考える、という発想を持つことができなかった、ということです。
こんな風に”勉強”なんて言葉を使うと、
堅苦しすぎて誤解を招いてしまうでしょうか?
この”頭を使う”という練習は、今テレビで活躍している芸人さんたちが、
芸を磨くという意味においても、同じだと思うんですよ。
芸人さんたちはバカばっかりやっているように見える。
私たちを笑わせるために。
そして、私たちは芸人さんたちの思うつぼ、笑わされます。
これは”技術”ですよね。
芸人さんたちは頭を使って、私たちを笑わそうとする。
芸人さんたちも日々練習し、日々学んでいるんですよね。
頭を使ったピアノの練習って?
誰もが教わらずに、こういう発想を持てるとは限りません。
私が勉強方法を考える、という発想を持てなかったのと同様に、
ピアノの練習方法を考える、という発想を持てない子は多い。
だから、いつまでたっても弾けるようにならない。
30分ちゃんとピアノの前に座っているのに、
弾けるようにならないんだから、楽しいわけがないですよね。
30分ピアノに向かったなら向かったなりに、
成長を実感できなければ、
脳内からドーパミンが分泌されるはずなどありません。
そこには喜びがない!
ということで、私は小学4年生頃から、
”頭を使う”ということに主眼を置いたレッスンを始めるのです。
最初は頭を使うとはどういうことなのか、
半年、1年かけてひとつひとつの練習の意味を、
本人が納得するまで説明し、
その場で練習の効果を感じることができるような
練習方法を提示します。
小学5年生にもなれば、
どうやって練習したらよいのか、自分で練習を編み出せるようになってくる。
また、自分で練習方法を編み出せなくても、
「何のために、この練習をしているのか?」ということを
認識したうえで、練習できるようになってきます。
こんな風に自分の頭を使い、
いろいろ工夫しながら考えて練習すること。
そのことによって”自律”は育まれていくのだろうと思います。
ところで、この”自律”は、
音楽表現する上での”自立”に立脚していなければ、
”自律”とは言えないのでは、と感じます。
「自分はここをどう弾きたいのか?」
「何故、先生はそう言ったんだろう?」
そのひとつひとつを理解しているということ。
ただ、言われるがままに弾くのではなく、
「何故なのか?」を理解するということ。
こう表現したいと、より具体的に自己主張できるということ。
こういったものの上に立脚した練習が、
本来あるべき姿の練習のはずです。
なんのための練習なのか?には、
”自分がこう弾きたいため”という理由がなければ。
”先生に言われたから”では自立してるとは言えませんよね。
ここを乗り越えたら強い!
自主性が育まれるということですから。
自立に立脚した、自律した練習ができるようになれば、
ピアノは長く続けていける!
趣味として確立する、ということです。
音楽なんだから、そんな難しい事言わずに、
楽しければいいじゃない?
頭を使わない趣味は長続きしないと思いませんか?
ゴルフだろうが、野球だろうが、水泳だろうが、
どんな趣味も頭を使うものです。
だからこそ楽しい。
この頭を使う楽しさに目覚めたとき、
自律の勉強、自律の練習が確立するということなのでしょう。
私は生徒さんをそこに導くまでの道しるべになれたら、といつも思うのです。
「自律しなさい」なんて言うだけじゃ、自律なんて無理。
そこまでの導きが必要と感じています。
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2012年06月20日
人間教育とは?
所属する社会が異なれば”常識”も変わる。
所属する社会が異なれば”しつけ”も変わる。
私たち社会が考える”教育の在り方”の多くは、
社会が異なれば中身も変わってくるんだろうなぁと、私は思うのです。
例えば、箸の持ち方。
確かに私は箸の持ち方の醜い人はあまり好きではありません。(^_^;)
でも、これは日本という社会に所属しているからこその常識ですね。
例えば、土足厳禁。
家の中に土足でズカズカ入ってこられたら、
そりゃぁ、私は怒ります。(笑)
部屋が汚れるでしょ!
その靴で公共のトイレに入ったかもしれないんでしょ?!
ばっちぃばっちぃっ!!
土足厳禁という社会だからこそのマナーに、
玄関の靴の置き方がありますね。
脱ぎっぱなしの靴を並べずにいたら、
「靴は揃えましょう。」って言いたくなっちゃいますネ。
これも日本に所属しているからこその常識。
日本社会に属している以上、身につけておきたい常識(マナー)。
これらは小さい頃から”しつけ”という言葉で教育される事柄です。
では、人間教育とは”しつけ”のことを指すのでしょうか?
私は違うと思うんですよ。
”人間教育”と”しつけ”とは異なるものだと思うのです。
しつけの行き届いている子に、
人間教育が行き届いているとは限りません。
もちろん、人間教育が行き届いている子に、
しつけが行き届いているとは限らないのです。
このほか、所属する社会の価値観によって、
求められる行動も変わってきますね。
ピアノ教育や学校教育の場で思い浮かぶ価値観は、
”師弟関係”における価値観でしょうか。
日本は師弟関係がすごく厳しい。
師匠の前では失礼のないように!です。
これは、先輩後輩という間柄にも置き換えることができますね。
でも、これほど師弟関係が厳しくない社会も世の中にはあるわけで。
そういう社会では、
日本での師弟関係に必要な”しつけ”が必要なくなります。
このように、所属する社会によって異なってくる”しつけ”。
これは人間教育と呼べるものでしょうか?
私は、人間教育とは違う土壌のものだと思うのです。
その社会に所属している以上は、身につけておいた方がよいマナーですが、
私はこれらを人間教育と呼ぶことはできません。
では、人間教育って何?ですね。
私は、幼児教育学を学んできているので、
人間教育というものを人間形成における”土台”と捉えています。
・自分を律することができる(自律)
・自分の足で立って歩くことができる(自立)
これらに”人として”という価値観を加えてもいいかもしれません。
道徳観念ですね。
この道徳観念は自分を律する上で必要な観念です。
この道徳観念としつけの違いを見分けるのはとても難しいことですが、
多くの社会に共通した「人としての在り方」という認識。
これは、宗教の違い、社会の違いに関わらず、
人への思いやりの気持ちや愛情といったものの上に立脚したものと思います。
もちろん、時代によっては、
今より人の命の重さが軽かったこともあるでしょう。
そのことによって”人としての在り方”という根幹が、
現代の道徳観とは異なっていた社会もあるかもしれません。
例えば、アステカ文明。
ここでは日常的に、多くの生け贄が殺されました。
生け贄にされることが本人にとって名誉なことだったともいいます。
例えば、ナチス。
民族的な差別、アーリア人優越の思考により、
多くの命が失われました。
ここでは、アーリア人以外の人の命は尊重されず、
逆にそれが求められたのです。
しかし、このような特異なケースを除いたとき、
宗教や民族による価値観の違いはあれども、
そこには”人としての在り方”という共通した何かが残る気がするのです。
どの社会においても、思いやりや愛情は大切にされるものと思います。
そういう”人としての在り方”を学びながら、
自律や自立といった、人間形成における土台を身につけていく。
これが私の考える”人間教育”です。
私はピアノ指導者ではありますが、
生徒さんと接するとき、
”人間教育”という土台を見失わずに
接していきたいと常々思っています。
しかし、それは”しつけ”とは異なります。
あくまでも、純粋な”人間教育”なのです。
”しつけ”と”人間教育”。
私は、これらを分けて考えるべきではないかと感じています。
”しつけ=人間教育”と思い込んでしまうと、
そこにひずみが生まれてしまう気がするからです。
しつけの行き届いた人間が、
自律・自立しているとは限りません。
ピアノ教育でいえば、
しつけが行き届き、レッスンでの師弟関係の常識を身につけ、
先生の言うことをしっかりと聞き、
先生を立てることのできる子が、
音楽的に自律・自立しているとは限らないのです。
私は”人としての在り方”を踏み外さない形で、
愛情を持って生徒さんと接したいと願っています。
それが、私の思う人間教育の在り方だからです。
それと同時に、ピアノ教育者のひとりとして、
生徒さんが音楽的に自律・自立することを目指します。
それは、生徒さんの私に対するけじめではなく、
生徒さん自身に内在するものを伸ばす、という意味なのです。
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2006年10月31日
教えるというコト
ピアノ講師という職業は、
レッスンするのが50%、
そのために勉強するのが50%って気がする。
勉強も仕事のうち。
これって、ピアノに限ったことじゃないんだろうなぁと思う。
教えるって責任があるコト。
だから勉強し続けなきゃいけない。
学校の先生も、茶道の先生も、
華道の先生も、水泳の先生も・・・。
あらゆる指導者というものは、
過去勉強したストックだけでは指導できないわけで、
そのバックグラウンドに「勉強」があるんだろうと思う。
ピアノで言えば、
まず自分のための勉強はしてきていても、
指導法というものについての勉強はしてきていないもの。
だから、世の中にはどういう指導法があって、
自分にはどういう指導法が合うのか勉強しなきゃいけない。
また、昔習っていた教材は、
ただ先生に指導を受ける身として使っていただけで、
その教材がどのようなスタンスに立って書かれた教材なのか、
どういう生徒に向いているのか・・・なんて考えて使ったことがないので、
これまた教材研究なる視点で勉強しなきゃいけなくなる。
ある程度指導法が身に付いたら身に付いたで、
生徒は成長するわけで、
その成長に応じた深みのあるレッスンができなきゃいけない。
幅広い知識や洞察力というものはレッスンに深みが出てくる上、
「ただ弾くだけ」というレッスンから脱却するのに必要なことでもあるから。
これは大学時代に勉強したことだけでは、とてもとても間に合わないのデス。
数百年という時代の変遷は(鍵盤楽器において)、
この世の中にどれだけの作品を残し、どれだけの作曲家を生んだことか。
この膨大な情報量は、大学4年でなんとかなるものではありませぬ。
一生かけても足りない。(^-^;
このようにクラシックは奥が深くて、
もっともっと〜と常に思わざる得なくなるのデス。
・・・・・特に、私はまだまだ未熟だから尚更。(_ _;)
だからね、ピアノの先生になりたいと思う人は、
儲けようって思っちゃ失敗しますネ。(笑)
収入の半分は、勉強で消えるので。<(;~▽~)
大学の教授や、ピアニストとして生活していけるだけの収入があるなら別ですが、
地域のピアノ講師にとっては、支出ばかりで収入の少ない世界。
クラシックってお金のかかる世界だなぁと思う。
生徒がお父さんに「ピアノじゃ食べていけないぞ」と言われました。
納得納得。私も彼がいるから食べていけてるんです。(感謝!)
だからといって裕福な人にしかピアノ講師はできない、なんて思いたくないですね〜。
そのためには家族の理解が絶対に必要だけれど。
あとはどれだけ買いたいものを我慢して、自分に投資できるか・・・。
好きでなきゃできない職業ですね。
私は欲しいものが本やCD、行きたい場所が演奏会や美術館なので、
やりたいこと・欲しいもの=自己投資なんですよね。
ラッキーだったなぁと思います。
自己投資以外の欲しいものをがまんするって必要がない。
やりたいようにやってりゃ自己投資になる・・・みたいな。(笑)
こうやって納得いくまで勉強に時間がかけられて、
自分なりの資金を自分に投資し続けることができるって幸せだなぁと思う。
だってね、勉強したいからレッスンは週4日以上にしないって・・・。
その分収入は減るわけだしネ。
その上自分に投資する分、支出は増えるわけで。(笑)
それが許される環境にあるって幸せだなぁと思うのですヨ。
正直、5,6年前はバイトした方がいいかなぁなんて悩んだことがあったのです。
結婚してるからパートってやつですね。
で、パート先で生徒に合ったらバツ悪いなぁ〜とか想像してたわけです。(笑)
勉強する時間はたんまりあったけれど、
自分に投資する経済的余裕がなかった。
今も年収は普通のOLさんの半分くらいにしかならないけれど、
これで十分かなぁと思う。
好きなだけ勉強できてるし美味しいものも食べてるし。
負担になるほどレッスンしているわけじゃないし。
全員に目が行き届く程度の人数ってのが私の信念で、
そういう意味でも丁度いい。少なすぎず多すぎず。
やっぱり恵まれてるなぁと思う。
果たして60歳になったら、
勉強50%の割合が20%くらいにまでなるのかな・・・。
それとも、まだまだ〜と勉強し続けることになるのかな・・・。
キツイ職業を選んだものだと思いつつ、
一生学ぶ機会が得られる職業にめぐり合えて幸せだなぁとも思うのでありました。
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2006年09月04日
ひまわりの丘更新について
どうもなんか違うなぁ・・・と。
更新しつつ腑に落ちない私。
ちゃんと腑に落ちてから更新しろよ、と思いつつ、
思いつくと即行動な私。<(;~▽~)
で、やっと腑に落ちる方法を見出しました。
「発達障害児レッスン記録」を、
「発達障害児レッスンアプローチ」に変更。
一人一人の記録は私が持っていればいい話で、
それを読む側にしてみたら、見にくいですよね〜。
そこで、それらをまとめて見やすくアップしよう・・・と。
ひまわり勉強会を通じて、
さまざまな発想を得たことをまとめて、
レッスンアプローチとしてご紹介することにしました。
これらのアプローチは、
障害あるなしに関わらず使える引き出しが多いです。
でもね、この子たちに出会わなければ気づかなかった引き出しでもあります。
たくさんのことをこの子たちから学び、
たくさんの世界をこの子たちに見せてもらっている気がします。
今後も見やすくなるよう更新していくつもりです。
今のところ、
・基本的なレッスンアプローチ
・メンタル面
・指、手
・様々なテクニック
に分けて更新していく予定です。
********************************************************************
昨日ひまわり勉強会がありました。
音楽療法学会などにも出席なさっている先生から、
とてもグッドなアドヴァイスをいただくことができました♪
記録のつけ方についてです。
これまでは「課題-アプローチ」と2種類にだけ分けて書いていたのですが、
「開始時期-目標-方法-経過-結果」に分けるとよいとのこと。
最初あまりに細かくて、私には手に負えぬ・・・と引いてしまった私。
でも、よくよく考えてみると、これは見やすい。
お母さまからお借りしたこれまでのレッスンノートを見ると、
こうやって振り返ることの大切さが身に染みます。
振り返ったときに見やすいように。
今は思い出しながらの作業なので、とても大変ですが、
これを乗り越えれば今後の私のためになりそうです。
そうそう、記録するときに「表情」について書いておくのもよいと伺いました。
なんか分かる気がしたので、書き留めておくようにしたいと思います。
やっぱりひまわり勉強会はいいなぁ〜♪
M先生に感謝です!!
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2006年08月21日
伸び時
私は導入にすごく時間をかけるタイプです。
1本指で弾くときから、
脱力・フレージング・拍子感・聴音・譜読み・・・。
あらゆることに手をつけるので。(^-^;
習っている人にとっては、なかなか教材が進まず、
上達が遅いように感じるかもしれません。
子どもにとっては、ゆっくり進むのでアップアップ感がなく、
マイペースに楽しく進めるんですけれどね。
親御さんにとっては、じりじりする期間かもしれません。
でも何年かじぃ〜〜っくり取り組んでいると、
進みの遅い子でも、それらが1つに結びつく瞬間が必ずあるんです。
「今が伸び時だな!」と感じる瞬間です。
この瞬間に、どのようなアプローチをするか・・・。
これまでのことを総復習する地固めに精を出すのか、
背伸びをさせ、ぐいぐいと前へ進めていくのか。
考えられる方法は、この全く逆の2パターン。
地固めをしっかりしておかないと、
すぐに「頭打ち」が来て、そこから先へ進めなくなってしまいます。
一生上達し続けていけるためのベースを作るためには、
この地固めがとっても重要。
でも、地固めばかりに気を取られていると視野が狭くなり、
上達のきっかけを見失ってしまうことにもなりかねません。
どちらのアプローチに将来性があるのか?
子どもの場合、
「理解力の度合い」なども検討しなければならないので、
本当に難しいなぁと思います。
でもね、先のカリキュラムに頭を悩ますことができるというのは、
とってもとっても充実した気持ちになれる素敵なコト。
生徒さんの成長を感じるからこその悩みですものネ。
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