その他

2013年12月30日

来年もよろしくお願いいたします♪

あっという間の年末。
あっという間の来年。
その12日後には、
あっという間に1つ年を取ります。

来年も、
あっという間に過ぎていく年月を、
一歩一歩踏みしめながら、
歩んでいけたらと願っています。

みなさま、どうぞよいお年をお迎えくださいね。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。


※年末年始は主婦全開で過ごすため(笑)、
 しばらくネットができなくなります。
 楽器支援お申し出への返信が遅れますが、
 どうぞご了承ください。


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2013年11月04日

機が熟すのを待ち、波に乗る

幸運体質という言葉を初めて耳にしました。
昨日、私は予知というほどではないけれど、
向こうからやってくる予感というものがあり、
そういうときは必ず当たる・・・という投稿を
FBにしたんです。

そういう予感は自分で選べるわけではなく、
勝手に向こうからフッとやってくるもので、
自分でコントロールできるわけではありません。

じゃんけんをしていて常に予感があるわけではなく、
たまに「これは負ける」と予感が降ってくると、
確実に負けますし、
「これは勝つ」という予感が降ってくれば、
必ず勝つという感じ。
この2人は結婚するなぁという予感が降ってくると、
その2人は必ず結婚するし。

昨日は内田光子さんの演奏会帰り道、
「今日、楽天は勝つ」という予感が突然降ってきて、
家に帰ってくる途中で楽天は優勝したのでした。

そんな投稿をFBにしたら、
とあるピアノの先生が、


それが向こうからやってくる時というのは、
事象や状況が全く違うにも関わらず、
ある一定の条件下でやってきているんですよ。



というコメントを寄せてくださったのです。
じゃんけんの予感が何故当たるのかはわかりませんが、
この2人は結婚する・・・という予感が、
突然降ってきて当たる理由はなんとなくわかる気がします。
これまでの私の経験上、
2人の空気感、雰囲気から想定されるんだろうなぁと、
感じているからです。

それで思ったんですよ。
そういえば私は自分の人生を作っていく上で、
「波に乗る」ということを大切にして、
その波を感じながら生きているなぁと。

波というのは、自分で作れるものじゃなくて、
そういう状況が揃うと、
向こうからやってきてくれるものと、
私は感じています。

多分、目の前にあること、
もしくは、自分が興味を持っていることに、
夢中になって取り組んでいるうちに、
状況が揃って、
そういう波がやってくるのでしょう。

なので、「ああこれは波だな」と感じた時、
私はその波を避けずに乗るようにしています。
とりあえずわけはわからないけれど、
乗ってみようと。(笑)
そうすると、一歩前へ進むことができたりするんですよね。

これは「発想」という点でも同じです。
発想にも波があって、
発想を得ようとどんなに頑張っても、
得られない時は全く得られない。
「発想を得よう」という目的では、
発想は得られないということです。
少なくとも私はそう考えているんです。

これもやはり、
目の前にあることや、
自分が興味を持っていることに、
夢中に取り組んできたという
積み重ねによる状況が整うと、
突然降って湧いてくるものなのでしょう。

そういう発想が突然降ってわいてきたとき、
やはりこれも「波」なので、
その発想に乗らなきゃ損と私は考えています。
そういう発想は、
必ず実現できるものだからです。

無理やり発想したつもりになって、
発想と思い込んで取り組むことは、
空回りしてしまいますが、
状況が整って、
向こうからやってきた発想は、
必ず実現できるんですよね。

ああなりたい、こうなりたい、
ああいう波に乗ってみたい・・・なんていう希望は、
ここにはありません。
こういう希望はかなえられることがないので。
希望を持つだけ、願望だけでは、
状況は揃わないんですよね。
波というのは、結果なのだろうと思います。

もともと、私は波を作ることに、
それほど興味があるわけではなく、
どちらかというと興味のあることに出会うと、
それに夢中になってしまうタイプの人間です。
他のことが見えなくなるというか。(笑)
没頭する感覚というのは、
とても気持ちのよいものなので。

そうして没頭する月日を何年か過ごしていると、
ふっと目を上げる瞬間がやってくる。
そのとき、波がやってくるんですよね。
もうちょっと没頭するつもりだったんですけど〜みたいな。(笑)

「機が熟すのを待つ」というのは、
ピアノ指導においても同じ。
生徒さんにも波というものがあり、
その波はその場で作れるものではなく、
ある一定の期間じっくりと育み熟成させることで、
ある日突然やってくるものです。

指導者の私は、
その波を無理やり作ろうとせずに、
一歩一歩地道に付き合うこと、
生徒さんに波がやってきたとき、
機を逃さずに乗ることを大切にしています。
タイミングが肝心!

特に発達障碍児にピアノを指導していると、
機が熟すための準備期間が、
どんなに大切か痛感させられます。

波が来ることって、
期待しちゃいけないんですよね。
期待するということは、
準備すべきことから目が逸れているということですから。
波が突然やってくるように感じるのは、
状況が整うための行為から、
一切目線を逸らすことなく夢中になっているからと思います。

ピアノ指導もそう。
その時期その時期の生徒さんから、
目線を逸らさないこと。
そうすれば呼ばなくても、
波は向こうからやってきてくれる。
「え?今ですか?」みたいな。(笑)


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2013年09月22日

糖質ダイエット

今年の2月くらいから糖質ダイエットをしています。
あっという間に6,7キロ痩せて、
今ではピーク時に比べ12キロほど痩せました。
結婚当初より痩せたのが嬉しい。
今は大学1年当時の体重。

小学校に入った頃から、
常にぽっちゃりおでぶちゃんだった私は、
ダイエットに成功した試しがありません。
食い気に勝てなくて・・・。
なので、平均体重というものを経験したことがないんですよね。(^_^;)
その私が何の苦労も感じずに、
みるみる痩せたのですから、
嬉しくないわけがありません。(笑)
今の目標は、この低い身長に見合った体重。

糖質ダイエットをして1カ月で動ける体になりました。
軽い気持ちで動けるって最高!
何をするのも億劫だったときは、
「動かなきゃ」と自分を動かすのに、
かなりの精神負担がかかっていたんですよね。
そんな自分が嫌で嫌で。
それが今はないんですよ♪
体が軽いってすごい。

特に糖質ダイエットの本を読んだわけではないので、
自前の糖質ダイエットですが、
体調もよいし、実際に痩せたし、
全然辛くないし、食べたいだけ食べてるし♪

今日楽天で、低糖工房というお店を見つけました。
これまでスーパーで見つけてきた食品より、
ずっとずっと低糖で、しかもパンやピザまでありビックリ!
早速、ピザとマドレーヌを購入しました。

体が軽いと、心はこうも軽くなるものなのか!と驚いています。
ダイエットは楽しむのが一番ですね♪


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2013年09月19日

自分を生きるということ

とりとめもない話になってしまいそうだけれど、
平野啓一郎氏の本を読んでいると、
この人の作品は短調なんだよなぁと、
過去の自分を思い出します。
特に「あなたが、いなかった、あなた」を読み、
「決壊」を読み始めた今、
過去の自分と重なることがたびたびあります。

胸を締め付けられるような、
臭いものには蓋をしろとでもいうかのように、
後ろを振り返らずに生きてきた私に、
過去を突き付けられているような。
10年前の私であれば、
本を読むことをためらい、
頁をめくる手を止めたかもしれません。

小学中学年頃から20代にかけて、
私の人生は短調でした。
傍から見たら長調の明るい響きに包まれているように
見えたかもしれませんが。

短調に感じる翳り。
初めて短調の旋律に胸を締め付けられたのは、
「小さい秋」と「ドナドナ」でした。
何故かこの2曲は強く印象に残っているのです。
歌詞の意味がわかるわけもなく、
翳りある旋律に吸い寄せられていました。

小学低学年の頃、
短調のメロディが大嫌いでした。
短調の翳りに吸いこまれそうになることへの恐怖。
胸をギュッと締め付けられる苦しさは、
幼い私の小さな胸に堪えられるものではなかったのだろうと思います。

いつの頃からか短調が好きになりました。
思春期に惹かれて読んだ本も、翳りのあるものばかり。
翳りに吸いこまれそうになることへの恐怖よりも、
自分に内在する翳りと同期させることのほうに、
夢中になっていたように思います。
すでに翳りに吸いこまれていたからなのでしょう。

思春期の私は自分の人生を、
”生きる屍”と表現していました。
もちろん自分の胸の内だけで。
「私は生きる屍だ。」
このまま生きていて何になるというのだろう?
私は私の人生を生きていない。

世の中の誰もが、
自分の役割を演じて生きているように感じていました。
母は世間が理想と思う母親を演じ、
私は母が理想と思う子どもを演じるというように。
これは本当の私じゃない。

自分の人生を守りたい。
自分自身を守りたい。
突然私を襲った衝動は、
家族にとっては青天の霹靂でした。
私はとても真面目でいい子。
母親にとっては理想的な子どもだったのですから。

周りを翻弄し、
自分を守るつもりで周りに翻弄され、
誰にも理解されず、
自分らしい人生を歩むことが許されず、
自分の力では立ち直れないほどズタズタになっている私を見て、
何人かの人がこう言いました。
「恵美子は不器用なんだよ。」

平野啓一郎氏を知ることになったNHKの対談。
この人の作品を出版順に読んでみたいと強く惹かれたのは、
「自殺する人は生きることに貪欲だから」
と語られていたからでした。

思春期の私は、
生きることに貪欲だったのだろうと思います。
周りから不器用だと思われていたのは、
周りに合わせて生きようとするのではなく、
なんとしてでも自分の人生を歩みたいと、
自分を貫こうとする行為に対してだったのでしょう。

私を生きるとはどういうことなのか?
私は、私の理想を生きたいと思ったわけではありません。
何か夢があり、その夢を実現させたいと思ったわけでもありません。
ただただ、素のままの、ありのままの自分で生きたかった。
誰かのために自分を演じるのではなく、
私という存在を実感し、
人生の一歩一歩を自身の足裏に感じながら生きたかった。
自分の力で自分の人生を開拓したかった。

私が私を生きていないと感じていた頃、
私は自分に偽善を感じていました。
「私は偽善者だ。」
自己嫌悪の塊でした。
誰かが喜ぶような行為をする。
相手は喜び「恵美子はいい子だね」と言う。
それを耳にするたび、
偽善者である自分を突き付けられたようで、
ひどく落ち込みました。

善とは何なのか?
何故相手を喜ばすことが偽善なのか?
その答えが見つからないまま、
私は私に偽善を抱き続けました。

今、私は自分の人生を不器用だったとは思っていません。
荒波に揉まれ、溺れかけた息苦しい10代、
その傷を癒すために費やした20代。
自分の人生を守るために20年近くかかってしまいましたが、
今の私には、自分の人生を歩んでいる、
私を生きているという実感、
自身の足裏に一歩一歩の実感があります。

誰と関わるときも「私は、私でいる」と思えます。
同業者といる私、
生徒さんの親御さんといる私、
生徒さんといる私、
親戚といる私、
義父といる私、
主人といる私。
すべて私です。

何故だろう?何故そう思えるんだろう?
平野啓一郎がいう「分人」という概念。
何故自分の中に内在する「分人」を、
全て自分だと思うことができるようになったんだろう?
何故、20代までの私は、そう思うことができなかったんだろう?
何故、自分の中に潜む1人1人の分人を、
偽善と感じ続けたのか?

翳に吸い込まれていた頃、
私は短調の楽曲を楽しむということはできませんでした。
同期していただけです。
そこに自分を感じ、そこに自分を投入していました。
それが慰めだとでもいうように。

今、私は純粋に短調が好きです。
幼少期に感じていた恐怖もありませんし、
同期してしまう私もいません。
そこには、響きを堪能し、愉しむ私がいます。
これは、自分の人生を歩んでいる、
私を生きているという実感があるからなのでしょうか。

私を生きるということ。
これは、物理的なことではないと思っています。
主人との時間、義父との時間、
親戚との時間、生徒さんたちとの時間。
これら全ては、
主人の時間でもなければ、義父の時間でもなく、
親戚の時間でもなければ、生徒さんたちの時間でもなく、
私の時間です。

私を生きるということ。
これは、他人から見た理想の私を生きることではなく、
自分から見た理想の私を生きることだと思っています。
他人の視線を一切含まない、
きわめて純粋な自己中心的な理想です。

こういう指導をしていれば、
人から注目を浴びることができる、
同業者に認めてもらうことができる、
こういう義姉であれば、
義妹から慕ってもらうことができる、
こういう義娘であれば、
義父に認めてもらうことができる、
こういう妻であれば、
主人に愛される。
これは全て自分をないがしろにした、
他者中心的な理想と思います。

あのとき、何故私は私に偽善を感じていたのか?
他者中心だったからではなかったか?
常に他者を意識して、
自己を形成していたからではなかったか?

こういう指導者でありたい、
こういう義姉でありたい、
こういう義娘でありたい、
こういう妻でありたい。

純粋に自分が自分に求めるもの。
それが社会的に善なのか悪なのかはわからないけれど、
自分が認められる自分であるということ。
私が私であるということは、
私と私の間に誰も介在していないということなのかもしれません。

私を生きるということ。
正確な答えを見つけることはできないけれど、
今、私は私を生きていると思えている。
そう思いながら平野啓一郎氏の本を読み進めています。


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2013年09月12日

自分の時間

他人に流れる時間と自分に流れる時間は違う。
それを混同し、他人と自分を比較してしまうと、
精神に歪みが生じ、
精神の歪みは生活を歪ませ、
生活の歪みは精神の歪みを助長させる。

自分の時間が歪み、
自分の時間でなくなってゆく。

私は、私の時間を大切に生きていきたい。


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2013年09月04日

相手に自分がどう映っているのか?

昨日、私は「大人という存在そのものが、
子どもにとっては強者なのだ」と書きました。
では、大人と子どもの間にラインを引くことは、
差別になるでしょうか?

意識的に引かれたラインは、
確かに差別だろうと思います。
しかし、私たちが意識したくなくても、
自動的に引かれてしまうラインというものがあるんですよね。

例えば、先生と生徒の関係。
どんなにラインを引きたくないと言っても、
「先生」という教える役割、
「生徒」という教わる役割、
それぞれの役割がある以上、
自動的にラインは引かれてしまいます。

私は、この自動的に引かれてしまった
生徒さんと私の間にあるラインを、
生徒さんや親御さんたちが意識し過ぎないよう、
心を尽くすようにしています。
特に、本を出版してからはなおさらでした。
相手から見たら私は、
「本を出版しているピアノの先生!」であり、
こちらがどんなにラインを消そうとしても、
一歩も二歩も私から身を引き、遠慮されてしまうからです。

これは大人と子どもの間にあるラインでも同じこと。
子どもにとって大人は、
自分より多くの物事をわかっている、
自分より体が大きい存在。
その上、自分を守ってくれる存在です。
大人が意識しなくても、自動的にラインは引かれているのです。

このように、先生と生徒、大人と子ども、
これらは必然的に強者と弱者に分かれていると、
私は感じています。
こちらが意識したくなくても、
自動的についてきてしまう強弱の関係です。
このとき私が大切にしているのは、
強者側に立った私が、


”相手から自分はどう映っているのか?”


を想像するということです。
必然的に自分より弱者となる生徒さんや子どもに、
自分がどう映っているのか?を想像することなしに、
相手を尊重することは無理と思うからです。

必然的に引かれてしまったラインを無視し、
1人の人間としてお互いを認識し、
お互いを尊重し合うためには、
必然的に強者となってしまった側の人間が、
あなたを1人の人間として尊重し、受け止めています、
と発信する必要があるでしょう。

強者側からこのような発信をするまでは、
生徒さんや子どもは先生や大人を、
自分より強い役割を担った存在として、
相手をけん制することでしょう。
また、強者から自分を守ろうという意識も働くことでしょう。
これでは、お互いに尊重し合うという関係を
築き上げることができなくなってしまいます。

昨日『子どもを批評する大人たち』で私が書いた、
大人としての自覚を持つことというのは、
子どもを差別するという意味合いで書いたものではありません。
相手から自分がどう映っているのか?と、
想像力を駆使する必要性を訴えたものです。

子どもから大人である自分がどう映っているのか?
好むと好まざるとにかかわらず、
強者として映ってしまうことの必然性。
子どもにとって大人は必然的に強者に映る、
ということを知っておくということです。

子どもを知ろう。生徒さんを知ろう。
相手を尊重するために、
相手を知ろうと思うことはとても大切なことですが、
それ以前に、相手に自分がどう映っているのか?
相手にとって自分はどういう存在なのか?
それをしっかりと受け止めておくことが、
その第一歩なのではないだろうか?とも思うのです。

自分がどんなに強者にはなりたくない、
周りにいる全員と対等で、
みんなと同じ立ち位置で差別なく過ごしたいと思っていても、
必然的に強者という立場に立たされていることがあります。
それは与えられた役割から自動的に発されてしまうことで、
自分にとっては不可抗力の相手側からの認識です。

相手に自分がどう映っているのか?
私という人柄を相手が知る前に、
必然的に私に与えられた役割から、
相手が認知するであろう私を、
私がどこまで想像して、
相手を慮った対応ができるか。

相手を尊重するということは、
自分を知るということなのかもしれません。
相手に自分がどう映っているのか?
それがわからなければ、
相手を尊重し、相手を慮る言葉は見つからないでしょう。

人は自分でも気づかないうちに、
相手を傷つけ、人を差別していることがあります。
自分に差別という意識がなくても、
相手に差別されたと受け止められることもあるでしょう。
それは、想像力の欠如から生まれることなのではないでしょうか。
相手から自分がどう映っているのか?という想像力の欠如。

私はあなたとの間にラインを引いていない。
私はあなたを尊重し、あなたと私は同等の立場だ。
と、どんなに相手に訴えたところで、
相手が自分を強者と認識しているうちは、
それは”願い”でしかなく、
現状はその願いの真反対の状態を呈しているのです。

これは日常生活のあらゆる場面で遭遇することですね。
誰もが、相手によっては強者となり、弱者となり得るのです。
相手が自分より強者であると感じると、
人は相手をけん制するものです。
相手から自分を守ろうとします。
相手から一歩も二歩も身を引こうとします。

親戚づきあいでも、同業者同士の付き合いでも。
たとえ、役割が与えられていない、
もともと対等の立場で出会った関係だったとしても、
お互いの性格によっては、
相手が強者として映ってしまうこともあります。


意識的に自分から生み出す差別
自分が認識していないからこそ生み出される差別



差別には2種類あるのかもしれません。
人に”強い”と思われがちな人は、
人から自分がどう映っているのか?ということを、
よくよく想像した上で言葉や行動を選ばないと、
後者になる可能性があるのかもしれません。

ラインは引きたくない。
そう願っていても、相手が自動的に引いてしまうライン。
そのラインの存在を目立たなくする、
もしくは、なくすためには、
強者と認識された側の人間が、
強者と認識されている自分を想像することなのでしょう。


大人は、そのままで大人です。
何もしなくても大人です。
子どもは、そのままで子どもです。
何もしなくても子どもです。
大人と子どもの違いは、
私たちがなんの働きかけをしなくても生じています。
存在そのものが大人であり、子どもなのだから。

子どもに子どもらしさを求めたり、
生意気だと批判などしなくても、
大人は大人なんですよね。
何の働きかけをしなくても、
すでに弱者と強者いう関係は成り立っているのです。

大人という存在そのものが、
子どもにとっては強者なのだということ。
今、その当たり前のことが見過ごされているように感じます。
                     (昨日のブログ記事より)


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