音楽/その他

2013年12月02日

大阪弁ってテトラコルド?

大阪弁ってメロディックだなぁと、いつも思ふ。
英語のような強弱アクセントも感じる。
なので、標準語よりリズミカルとも思ふ。
とにもかくにも、音楽的ということ。

何故こんなにメロディックに感じるんだろう?
方言とはいえ、
高低アクセントで成り立っているという点は、
標準語と変わりないはず。
(多少強弱アクセントを感じたとしても)
でも、単純に標準語と高低の位置が違うだけ、
ということではないんじゃないかなぁと。

そんな風に大阪弁を聞いてみると、
音程の幅が標準語よりある気がしてきました。
基本、標準語の幅は2度あれば十分。
ところが、大阪弁は2度では収まりきらない。

最初は3度かな・・・と思ったんです。
でも、違う気もしてきて。
もしかしてレーソという4度の音程で、
しかも、ミがないんじゃない?と。

「レファソ」って、これテトラコルドじゃんっ。
(邦楽の小泉文夫氏によるテトラコルドで、
3音によって成り立つ方です。)

言語そのものが音階でできてるってこと?

私は言語の専門家ではないので、
あれこれ調べたわけではなく、
感覚的に考えているだけなのですが、
大阪弁アクセント体系のように、
大阪弁について書かれたサイトをあれこれ探してみても、
方言って基本2度で考えられているらしく、
どうも私にはしっくりこないんですよね。

たとえば、「そうやねん」という発音。
私には「ソーファレ」と聞えてきます。
「ソーファミ」でもなければ、
「ソーファファ」でもないんですよね。

たとえば、「わからへん」という発音。
私には「ファソファレ」と聞えてきます。
「ファソファミ」でもなければ、
「ファソファファ」でもないんですよね。

こういう視点から、
大阪弁を研究している人っていないのでせうか?
また、このような音階を持つ言語って、
他にもあるのかな。
あるなら聞いたことのない外国語でもいいから、
その響きを聞いてみたいなぁ、なんて思ったり。

テトラコルドは、わらべ歌や民謡などの音階ですが、
言語そのものが音階を持っているとしたら、
本当に面白いと思ふ。

大阪弁の数の数え方は、
もうそれだけで音楽的だもの。
一度大阪弁の数の数え方を、
楽譜に起こしたものを見てみたいなぁ。
誰か楽譜に起こしてくれないだろぉか?(笑)


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2013年09月25日

言葉にとらわれない

私は”言葉”が大好きです。
考えるという行為には言葉が伴うものですが、
考えるという行為も大好き。
こうして考えたことを整理するために、
文章を書くことも大好きです。

でもその反面、言葉では言い表せない、
”体感”も大切にしたいと思っています。
音楽上のことだけでなく、人生そのものにおいて。


「発達障碍って、どんな障碍ですか?」


この質問に言葉で答えるのは、本当に難しい。
どんなに長い文章を用いても、
この質問に答えることはできないと感じるからです。
そもそも、この障碍をいくつかのカテゴリーに分けるというのは、
無理があるのだろうとすら思います。

ひとくちに自閉症といっても、
自閉症スペクトラムという枠組みの中に、
さらにいくつかのカテゴリーがあり、
それぞれのカテゴリーの線引きがどこにあるのか?というのは、
私にはわからないんですよね。
医学的にはそれなりに線引きがあるのだろうと思いますが、
それでも絶対的なものではないのだろうとも感じます。

知的障碍で自閉傾向がある子と、
自閉症と診断されている子の線引きはどこにあるのか?
広汎性発達障碍の子との線引きはどこにあるのか?
多動の傾向がみられるという診断と、
多動症と診断されている子の線引きはどこにあるのか?

言葉というのは、ある枠組みを形成するものですが、
私たちはその枠組みに、
拠り所を求めやすいのではと感じます。
一体これは何なのか?
それを指し示すための”単語”という枠組みが欲しい。
その何者かに単語が与えられると、
それそのものについては理解していなかったとしても、
何らかの安心感を得る。

こんなことを考え始めた理由は、
平野啓一郎著『決壊』を読んだからです。
理解できない存在(この作品中では無差別殺人を犯す犯人)に、
「私たち一般の人間とは違う」という枠組みを与えないと、
不安でたまらなくなる。
だから、理解不能な無差別殺人という行為を犯す人に、
精神病という理由を与えたくなる。
何らかの枠組みを与えたくなる。

平野啓一郎氏は他の作品においても、
「言葉」について語ることがあります。
作品中の人物が「言葉」について語ることがあるんですよね。
言葉になったとたん、何かが失われてしまうといったような。

言葉というのは、
自分の認識を確認する作業において、
必要なものではあるけれど、
それと同時に”体感”という直接的な感覚を、
奪ってしまうものなのかもしれません。

小学1年生の子にレッスンをする。
「小学1年生」という枠組みに生徒さんを入れて、
生徒さんと接してしまう。
小学1年生なのだから、これくらいの理解力があるだろう。
小学1年生なのだから、これくらいの精神年齢だろう。
この枠組みがあるお陰で、
どうレッスンすべきか考えやすくなる。
そう思い込むというような。

でも、これってすごく漠然としたことで、
言葉で人と接し、
言葉で人を判断しているということなんですよね。
そこには直接触れ合った”体感”がないということ。
人対人という関係性が薄れてしまうように感じます。

生徒さんの年齢を知ること、
生徒さんの障碍名を知ることに、
どれだけの意義があるのか?と、いつも思います。
これらの枠組みが私のレッスンに影響を与えるということは、
ほとんど皆無に近いからです。

年齢や障碍名を知らなくても、
接していればその子の理解力、精神年齢、
身体能力、性格を把握することはできます。
逆に、枠組みに入れて生徒さんを見てしまったら、
見えないことが山ほど出てきてしまうでしょう。
”体感”を通した付き合いに、
反応が鈍くなってしまうからと思います。

会話においてもそうですよね。
相手の言わんとしていることを、
言葉尻だけを取り出していたのでは、
会話は成り立たないだろうと思います。
相手の使っている単語の意味を、
いちいち吟味しながら会話していたのでは、
話が進まないというか・・・。
いくらでも非難、批判する材料は見つかることでしょう。

私は発達障碍児と深くかかわり合ってきているので、
障碍に詳しいと思われがちなのですが、
実は、障碍についてはたいして詳しくありません。
医学に従事している人のような知識が、
発達障碍児のレッスンや日常の関係性において必要かというと、
必要ないことの方が多いからです。
人間関係を築き上げる上で、枠組みはいらないと感じています。

確かに自閉症スペクトラムのような障碍の場合、
多少の知識は必要と思いますが、
そこから関係性を発展させ育んでいくのは、
直接関わり合うという”体感”であって、
障碍名に対する”知識”ではないんですよね。

そのため、こんな風に文章を書くのが大好きな私には、
”単語”への拘りが不足しているところがあります。
私が拘りを感じるのは、単語そのものというより、
文章のリズムや響きであって、
その単語の意味をどう捉えるか?という点ではないんですよね。
哲学では「知覚」と「認識」という言葉を、
どういう意味合いで使うのか?といったところから議論し、
話を進めていくようですが、
私にはそこまでの拘りがないというか、拘れないというか。

とはいえ、単語というのは誤解を招く原因にもなってしまうので、
その点難しいなぁと思ったり。
今回、発達障碍とピアノについて対談するという機会をいただきました。
昨日そのCDが届いたので聴いてみたのですが、
単語に対する私の拘りのなさが、表出していることに気づきました。
拘りがないにしても、
かなり重要な間違いだったんですよね。

こうして文章を書くときは、
読み直し、訂正し、ある程度整理してからアップロードするのですが、
対談は時間の経過のまま表現されてしまいます。
ちょっとした間違いも、
話に夢中で気づかないまま語ってしまっていることがあるのだなぁと、
初めて気付かされました。

私の単語の間違いはとても重要で、
ちょっとした言葉尻の間違いとは言えないものだったので、
誤解を与えてしまいかねません。
早速、訂正を依頼させていただきました。
対談なのでCDそのものを訂正するわけにもいかず、
すでに郵送の準備が整っているということで、
他の方法で会員の方々に訂正を伝えていただくことになりました。
この一件で、対談の難しさを、ひしと感じました。

とはいえ、今回の間違いは、
私が障碍名や症状という単語に固執して、
発達障碍児と付き合っているわけではないということを、
改めて再認識する機会ともなりました。
障碍名や症状という単語は、
社会においては必要な単語だろうと思います。
行政支援を受けるためには必要なものでしょうし、
そういう障碍があることで、
社会で生きにくさを感じている人がいるのだということを、
多くの人が知る上でも必要な言葉と思います。
しかし、1対1の直接的な関わり合いにおいて、
枠組みは必要ないのだということ。

レッスンにおいて、
「どう表現したいのか?」
「技術をどう伝えるのか?」といったことを、
私は必死で言葉で表現しようと試みます。

レッスンに限らず、本を読み、
表現するための語彙を増やしていくことは、
「この楽曲をどう演奏したいのか?」
という漠然としたものを、具体的なものにするため、
私自身にとっては必要なことなんですよね。
言葉にすることで、認識が強まるので。

言葉と体感の間には、
相互関係があるように思います。
体感することで理解が深まることもあれば、
体感を言葉に置き換えることで、
無意識だった体感を意識できるようになることもあります。

レッスンにおいても、
自身の演奏においても、
人生においても、
直接的な”体感”を大事にしながら、
言葉と付き合っていく。
そのバランスなのかもしれません。


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2013年07月15日

解像度の高い耳

主人がいつも録画している番組に、
NHKの『SWITCHインタビュー』という番組があります。
異なる分野で活躍する2人が、
お互いの仕事場を訪れ、
お互いの仕事の極意について語り合うという番組なのですが、
いつの間にか私もその録画を楽しみに観るようになりました。

今日観た録画は、構成作家で脚本家の小山薫堂さんと
アートディレクターの佐藤可士和さんの対談。
小山薫堂さんは、『料理の鉄人』の脚本や『くまモン』の仕掛け人で、
佐藤可士和さんは、ユニクロやセブンイレブンのロゴや商品、
店舗のデザインなどを手がけている人です。

対談の最後の方で、可士和さんが日本人の繊細な感性を、
”解像度が高い”という言葉で表現していて、
なるほどなぁ!と思ったんですよ。
ピンとくる言葉だったというか。
そして、音楽に必要な耳の良さというのは、
”解像度の高い耳”なのだと思いました。

昨年、新しい解像度の高いテレビをリビングに、
それまで使用していた解像度の低いテレビを寝室に置き換えました。
買い換えたばかりの頃、
私にはこの2つのテレビの解像度の違いを、
感じとることができませんでした。

ところが、リビングのテレビ画面に慣れた頃、
久々に寝室のテレビ画面を見てビックリ!
こんなにぼやけた画面だっけ?!と、
リビングに置かれたテレビとの違いに愕然とさせられたのです。

解像度の高さを日常で経験したことのなかった私は、
新しいテレビに買い換えたとき、
解像度の違いを感じることができませんでした。
しかし、解像度の高いテレビを日々観ることで、
その違いを感じとることができるようになっていたのです。
耳にも同じことが言えると感じています。
解像度の高い音楽を聴き慣れていなければ、
解像度の高い音楽と低い音楽の違いを聴きとることは難しいでしょう。

ところで、テレビ画面の解像度について、
私は”何がどう高いのか”ということは分析できません。
ただ”違いを感じられる”といった程度のものです。
テレビを観るという楽しみにおいて、
解像度の高さを分析する必要性などないわけですから、
その違いを感じとることができるだけで十分なのですよね。

これも、音楽に置き換えることができるのではと思います。
演奏をしない聴くだけの人は、
音の解像度を分析する必要がありません。
音楽の深い表現力をより堪能できるための、
高い解像度を”感じとる耳”があればよいだけです。

しかし、演奏する側の耳となると、そうはいきません。
”何故解像度の高い音楽に聴こえるのか?”という
分析できるだけの耳が必要になってきます。
分析できなければ、そのような解像度の高い演奏表現を
体現することはできないからです。

2つの旋律が立体的に聴こえてくるのは何故?
ハーモニーが色合い豊かに聴こえてくるのは何故?
音色が変化して聴こえるのは何故?

様々な角度から”響き”の分析が必要になります。
その解像度が高ければ高いほど、
それを実現させるため練習には熱がこもるでしょうし、
演奏も解像度の高い立体的な演奏になることでしょう。

ピアノ指導者は何故ピアノを習うのか?
”解像度の高い耳”が、要因のひとつとしてある気がします。
ピアニストは解像度の高い耳と、それを分析する耳に優れています。
そして、それらを体現するための表現テクニックの引き出しも豊富なのです。

コンサートへでかけたとき、
私は第1部を”学びの耳”で聴くよう心がけています。
解像度の高い耳を駆使して、
演奏者の響きを分析するのです。
ここで得た分析は自分の練習に役立ちます。
この聴き方は、解像度の高い耳を育むのに良いと感じています。
(第2部は分析はやめにして、無心で音楽を味わうことにしています♪)


”解像度の高い耳”


解像の項目は無数にあります。
その項目数が多くなれば多くなるほど、
解像度は高くなっていくのでしょう。
まだ私が気づいていない項目も山ほどあるはず!

このお二人の対談。
最後に「気が合うのに全然違う!」と盛り上がっていました。
片方は整理術に長け、片方はもったいないを生かすタイプという、
間逆のアプローチを持っていたからです。
でも、本質が似ているから気が合うんですよね。

本質って、そういうものなのだろうなと感じます。
音楽における本質もそう。
クラシッであろうが、ジャズであろうが、ポピュラーであろうが、
聴くだけの人であろうが、演奏する人であろうが、
趣味でピアノを習う人であろうが、
演奏家を目指してピアノを習う人であろうが、
本質はきっと変わらない。
ただ、アプローチは人それぞれなんですよね。

この番組、こんな風に化学反応を起こす組み合わせに出会うことがあり、
そういうときは観ていてとても興奮します♪


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2013年01月24日

国際コンクールで聞いた出場者の将来の夢

ピアノ教育談義でお話させていただいているピアニスト、
ウララさんの幻の雑誌記事のご紹介です。
「レッスンの友」と「ストリング」に掲載される予定でしたが、
両誌を発行するレッスンの友社の突然の廃業により、
幻となってしまった第13回大阪国際音楽コンクールの記事。


国際コンクールで素晴らしい演奏を聴かせてくれた方々に、
ウララさんが「将来の夢」についてインタビューしています。
若い彼らの夢は?とても興味深い内容の記事です。
http://osakaimc.blog137.fc2.com/blog-entry-294.html


この記事に関する、ウララさんのブログ記事。
「選択肢があるっていいね」も是非ご一読ください♪
http://ameblo.jp/urarasasaki/entry-11454977809.html


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2012年11月26日

懐かしい記事たち

先日久々にブログデザインを更新し、
右サイドバーに「今日の人気記事」を加えました。

ブログを頻繁に更新している時期は、
その日の記事がトップにくるのですが、
ここ数日記事を書いていなかったので、
過去のブログ記事がランクインし始めています。
もう何年も前の記事だったりするので、
とっても懐かしい〜。

アクセス解析もここ何年か見ていなかったのですが、
最近ちょこちょこ覗くようになりました。
いろんな検索ワードがあるんですよ〜。
意外に多いのが「ヘミオラ」。
毎日4,5人「ヘミオラ」で検索してくる方がいらっしゃいます。

それから多いのが「戸隠」。
パワースポットで検索する人が多いのかな。
音楽中心のブログのはずなのですが、
毎日のように「戸隠」で検索してくる方がいらっしゃいます。(笑)

次に多いのが防音室関係。
3年ほど前、今の家に引っ越してきて防音室を作ったのですが、
その時期、嬉しくて嬉しくてブログ記事にしまくっていたのでしタ。

あとは、教材関係で検索してくる方が多いようです。
カテゴリーに「教材を眺めて」がありますが、
これらの記事を読んでくださる方が、
意外に多くて、ちょっと嬉しかったり。

あとは、音楽ブログらしい検索ワードばかり。
指の凹みとか、指くぐりとか、コルトーのピアノメトードとか・・・です。
こういう検索は、ピアノを独学でなさっている大人の方なのかな、
なんて想像したり・・・。

過去のブログ記事を読み直すなんてことはそうそうないので、
ランキングに数年前の記事が出てきたりすると、
当時の自分が思い出されて面白いものですネ♪


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2012年02月22日

クラシック演奏家に必要な資質

音楽漬けの何日かを過ごして改めて思うこと。
演奏家ってのは尋常じゃないよなぁということ。
私が考えるクラシック音楽における演奏家の資質。


・理解力(アナリーゼ、音楽学など)
・記憶力(レパートリーの保持)
・運動能力(楽器を駆使する技術力)
・音感(ソルフェージュ)
・思慮深さ(哲学・文化における造詣の深さ)
・感受性の豊かさ
・精神力(聴衆の前で演奏する緊張の持続に耐えられる)


ふと思いつくだけでもこんなにたくさん!
この中でリサイタルを開くための最低限の資質は、


・記憶力
・運動能力
・精神力


でしょうか。
でも、これだけでは良い演奏家とは言えないですよね。
人から与えられた解釈で指の運動をするのではなく、
自分で思考し楽曲を組み立てる素養が必要。
そして聴衆を感動させるには感受性の豊かさ。
上に挙げたすべてを併せ持つということが、
歴史に名を残す巨匠に必要な資質なのでしょう。

運動能力は優れているけれど思慮深さが足りない。
感受性は豊かだけれど理解力が足りない。
理解力は優れているけれど運動能力が足りない。
思慮深さに秀でているけれど感受性が足りない。
たいていのピアニストはバランスが悪い。
そして、そのバランスの悪さが魅力になっていたり。
その魅力は、この中のどれかが特に秀でているという証拠なのだけれど。

私はというと、最低限必要な資質の段階で落ちこぼれ。
リサイタルを開けるだけの記憶力もなければ、精神力もありません。
もちろん運動能力も・・・。
これだけ資質がないと諦めもつくというもの。(笑)

それでも、青柳いづみこさんの本を読んだり、
リヒテルの本を読んだりすると、
自分の感性の未熟さ加減にげんなりしてしまうのです。
あぁ、私の感性はなんて幼稚なんだろうと。

感性の豊かさと、理解力、思慮深さ、音感には強い繋がりがあります。
私はこの繋がりが弱い。
だから、感性に深さを持つことができない。
特に理解力は・・・もう・・・ね・・・、
頭のいい人に敵うはずなんてないんですよね。
頭のいい人が5分で理解できることを、
1時間かけて噛み砕いた説明を受けても、
私には理解できないことがあるのですから。

それでも、自分の持てる能力は出来る限り使いたいとも思うのです。
知りたいと思うことを理解できたときの喜びは格別。
自分の成長を実感できたときの快感ったら!


文学という感性が必要と思った。
西洋文化を知るうえで、ギリシャ神話や聖書を知ることも必要と思った。
だから、ホメロスの叙事詩を読んだ。

哲学という感性が必要と思った。
西洋人の思考を知る上で、西洋哲学の視点を学ぶ必要を感じた。
だから、アリストテレスやカントを読んだ。

思想についての知識が必要と思った。
だから、啓蒙思想の本を読んだ。
啓蒙思想に関わる文学を読んだ。

クラシック音楽と建築は深いかかわりがあると思った。
だから、建築学の本を読んだ。

美術館へも足しげく通った。
耳を育てるために、たくさんの演奏会に通った。


記憶力がなく理解力が乏しい私なりに、
知りたいと思うことに手を伸ばしてきました。
それは、先に述べた資質同士を繋げる作業だったように思います。
これが感性の深さに通じ、深みのある演奏に通じると思ったからです。
そして、その感性の深さがピアノ指導者の資質として必要なものだと思うのです。

あまりに漠然とした勉強なので、
成長を感じることはそうそうありません。
果たしてどこまで自分に理解できているのかすらわからない。
これらの理解が音楽にどう通じていくのかすら手探り状態。
だけど、必ずそこには音楽との密接な繋がりがあるはずなのです。
それは、私が大好きな演奏家の演奏を聴けば一目瞭然。

この道がどこへ通じているのか、
能力の低い私に、どこまで歩みを進めることができる道なのか。
それはわからないけれど苦しくはありません。
最初の頃は義務として自分に課していたので苦しみましたが、
今はどちらかというと楽しい。
これが成長というものなのでしょうか?

ここ1,2年、私は自分の土壌を耕すことから離れていました。
本を出版し楽器支援を進めていく中で、
”発信”することにばかり焦点を当てていたように思います。
レッスンも発信の場ですね。
自分の土壌を耕してそこで育んだものを生徒さんに与える。

土壌は耕さないとやせ衰えてしまう。
ふと自分の足元を見てみたら、
私の土壌がやせていることに気付きました。
元来私は発信タイプの人間ではなく、
ただただ自分のためにコツコツと土壌を耕すのが好きなタイプ。

私には演奏家の資質である、
記憶力や精神力、運動能力なんてありませんし、
それほど高い理解力があるわけでもありません。
でも、土壌を耕すのはこの上なく楽しい。
こうして楽しめるのは、自分が演奏家ではないからなのかもしれませんが。

たくさんたくさん耕して豊作になると、それを誰かに分けたくなる。
それがレッスンなんですよね。
演奏家の場合は、それが演奏会なのでしょう。

こうして自分の土壌を心行くまで耕せるというのは、
なんて心地良く愉しいこと!!
3月以降は義務的にやらなければならないことが目白押しなので、
2月中はこの貴重な時間を堪能したいと思います♪


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