読書

2016年03月28日

お勧めの本『親子アスペルガー』

先日購入したと投稿した本。
さっそく読みました。

s-DSCF0001


とにかくイイ!!!!
ものすごぉくイイ!!!!

著者は大人になってから
アスペルガーと診断された方ですが、
障碍の特性を理解し、
それを子育てにものすごく生かしているんです。

異なる個性を持つ2人のお子さんへの、
それぞれに応じた愛情豊かな工夫が、
本当にすばらしい!

特に、本人が納得できるような説明の仕方は、
ここまで思いつけないよ〜!というくらいの工夫。


s-DSCF0003

s-DSCF0002


そうなんですよね。
我儘でイヤイヤと反抗しているのではなく、
わけがわからないせいで、
受け止めることができないだけ。
納得すれば受け止めようと努力してくれますし、
前向きに一生懸命になってくれるんですよね。

先日発売した私の本、
発達障害でもピアノが弾けますか?』に書いた、
ケンタくんとシンジくんの連弾シーン。
本ではその後についてカットしましたが、
実はあの後「ほよよ〜!」ということが、
ケンタくんに起きたんですヨ。

あの練習で「完璧に弾けるようになった!」と
思い込んだケンタくんは、
「もう弾けるようになったから練習しない!」と、
その後の1週間、全くこの曲を弾かなくなったのです。
お母さんがいくら言ってもダメ。(笑)

完璧に弾けるようになったものを、
なんで練習しなきゃいけないの?と、
練習の意味がわからなくなったようです。
このときのケンタくんの反応を見て、
その正直な反応に「なるほどな〜!」と思いました。

でも、そのまま放置していては、
発表会で最悪な演奏になってしまいます。
ありがたいことに、次の週のレッスンで、
ケンタくんはあちらこちらをつっかえて弾きました。
「完璧に弾けるようになったはずなのに!どうして?!」と、
ケンタくんは自分にびっくり。

そこで、次のような文章をノートに書いて、
読んでもらうことにしました。


弾けるようになっても、
弾かないでいると忘れてしまい、
弾けなくなってしまいます。
発表会までは忘れないために弾きます。



以来、毎日真面目に弾いてくれ、
無事発表会当日を迎えたのでした。
 (当時のケンタくんにとって「弾ける」ということは、
 楽譜通り指が動くことであり、
 音楽的な演奏を追求するという
 目に見えない漠然としたことへの理解は難しかったので、
 そこまでの理解は求めていませんでした。)

一体どれくらい説明が必要なのか?
どこまで説明したら納得してもらえるものなのか?
この本を読むことで、
見えてくることがあるのではと思います。
ピアノ指導者にとっては特に、
障碍あるなしに拘わらず、
必要なスキルですよね。

最後に、『親子アスペルガー』で感動したシーンを。

長男が小学3年生になり、
交流のため通常学級に行くことになったときのお話です。
「みんなにぼくのことを知ってほしい」と、
長男が自分のことについて、
通常学級のお友だちに伝えるシーンがあるんです。

自分の障碍を知り、受け止め、
それを人に理解してもらえるよう説明する。
小学3年生の男の子が、
お母さんや先生の助けを借りて、
生き生きと朗らかに説明するんです。

この本の副題は「明るく、楽しく、前向きに。」。
とてもとても素敵な親子のお話です。
是非一度、手にとって読んでみてください。


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2015年09月01日

朗読 アンデルセン作 ヒナギク

久々に趣味の朗読を楽しみました。
ここ数年はホームページにリンクせず、FBに投稿しています。
ミューズスタジオの更新は手つかず状態。
リンクすればよいだけなのですが、
FBがあまりに手軽なものだから、
ホームページの更新が面倒になってしまい・・・。(^_^;)

これまでの朗読録音はどれも作品の一部分でしたが、
今回は、アンデルセン作『ヒナギク』の全てを録音しました。
この作品は、アンデルセンの中でも特に好きな作品で、
以前、この物語に捧げる曲を作曲したことがありました。

朗読するならこの曲を使いたいと思い、
早速、多重音声で編集できる無料ソフトをダウンロード。
今はすごい時代ですね〜!
こんな機能の高いソフトを、
営利目的でなければ無料で使わせてもらえるのですから。

使用楽曲は、以前作曲録音したものです。

『陽だまり』
『忘れられた小さな歌』
『異国の風』
『ヒナギク』

ヒナギクだけはカットなしで使いました。
この作品を読んですぐに作曲した曲なので、
私の読後感がそのまま曲になっている感じ。

久々の朗読。
本当に楽しかった!
昨日は丸一日、遊園地で思う存分に遊んだような気分でした。(笑)
たまにはこうやって、伸び伸びと自由に遊ばないとですね♪


【朗読 アンデルセン作 ヒナギク(前篇)】

朗読/音楽/演奏 中嶋恵美子
写真 eflon


https://www.facebook.com/emikopiano/videos/464760233706962


【朗読 アンデルセン作 ヒナギク(後篇)】

朗読/音楽/演奏 中嶋恵美子
写真 eflon


https://www.facebook.com/emikopiano/videos/464889253694060


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2013年10月19日

電子辞書ってすごぉい!

先日電子辞書を購入しました。
ああ、どうしてもっと早く
この存在に気づかなかったんだろう!
電子辞書ってすごいですねっ。


【送料無料】SHARP / シャープ Brain PW-A7400-R [レッド系]
【送料無料】SHARP / シャープ Brain PW-A7400-R [レッド系]

7300にしようと思っていたのですが、
実際に触ってみて7400に決めました。

もともと本を読むために買ったので、
国語系の辞書が多く登録されている
電子辞書を探していたのですが、
実際に使ってみると、
ブリタニカ国際大百科事典が大活躍!

漢字中心に検索することになると思っていたのですが、
実際は語彙の意味を調べることの方が多くて。
今読んでいる本がニーチェだからと思います。
三省堂のスーパー大辞林3.0も良いのですが、
ブリタニカの方が詳細な感じがしています。

あれも引いておこう、これも引いておこうと、
怪しい語彙も念のため、
頻繁に検索しながらの読書。
電子辞書が手元になかったときは、
30分で眠くなっていたニーチェ。
電子辞書があると意味がよくわかるので、
眠くならないということに気づきました。

哲学書は私には難しいんだし、
とりあえず雰囲気さえつかめればと
読み進めてきた本ですが、
辞書があるだけで、
ずいぶんと理解できるものなのですね。

私はお布団の中で横になりながら、
リラックスして本を読むのが好きです。
電子辞書は軽くて小さいので、
ヒョイヒョイッと横になったまま、
気軽に検索できるのがいいんですよね〜。

面倒くさくないって重要なんだなぁと、つくづく。
あれもこれもササッと調べられるので、
調べるという行為に気をとられることなく、
記憶が新しいうちに本を読み進めることができます。

しかも、調べた語彙の説明文に、
さらに調べたい言葉が出てきたとき、
そこをペンでなぞり「ジャンプ」を押すだけで、
その語彙についても調べることができちゃう。
調べる行為の負担が全くないというのは、
一貫した思考を保ち続けながら調べられるので、
ホント助かります。

私の場合、記憶力が異常に弱いので、
調べるという行為に夢中になっているうちに、
前後の記憶があやふやになり、
思考が分断してしまうんですよね。

ところで、私が購入したシャープのBrainは、
一括検索することができます。
この機能のお陰で、
ひとつの語彙を調べるとき、
複数の辞書で調べると、
その語彙についての理解が立体的になりやすい、
ということがわかりました。

ある言葉を検索すると、
Brainに入っている全ての辞書から、
その言葉を抽出してくれるんです。
世界史辞典、ブリタニカ、大辞林、
場合によってはカタカナ語辞典などに、
私が調べる言葉は引っ掛かります。

同じ言葉の説明でも、
辞書によって説明の角度が違うんですよ。
特に哲学系の言葉は、
いろんな角度からの説明文を読むほうが、
私にとってはわかりやすいようです。

この電子辞書、
漢字検索がほとんどだろうと思い、
購入したものでしたが、
この漢字検索も超お手軽なんですよ。
ペンで書いて検索できるからです。

特にありがたいのは、熟語の検索。
一文字ではなく、
この二文字をどう読むのかが知りたい、
なんていうときとっても便利!
そのまま二文字を書けばいいだけなので。

今のところ検索できなかった言葉は、
ひとつもありません。
あれもこれも、必ず見つかる!
凄すぎですっ。

電子辞書は、私にとって高価なおもちゃ。
手元にあるというだけで、ワクワクしてきちゃう。
幸せ♪♪♪


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2013年10月08日

対-人ではない分人の比率

先日”「個人」から「分人」へ”という
ブログ記事を書きましたが、
人の分人に限らないというのが、
平野啓一郎氏の「分人」の魅力と、
私は感じています。
音楽、文学、美術、あらゆるものと対面する自分(分人)。
自分の中に生まれる分人は、
人との分人だけではないのです。

このとき私は、自分の分人の比率を思い浮かべます。
私の人生の足場となる分人は、
主人や義父、生徒さんたちが主ですが、
その中には音楽や文学、
美術との分人も含まれるのだなぁと。

対-人との分人というのは、
抱えられる人数が人によって異なるのではと感じます。
私はそれほど多くを抱えられるタイプではありません。
分人が増えれば増えるほど、
足場となる分人が持てる比率は、
必然的に低くなってしまうわけですから。

私の場合、足場となる分人の比率を
一般より高く保っていないと、
精神安定が図れないのだろうと思います。

例えば、今、同業者の間では、
ピアノ指導者同士の繋がりや、
セミナーに通うことが流行っていますが、
私がそれだけの分人を抱え込んでしまったら、
精神安定は一気に崩れてしまうだろうと思います。
私に向いた比率というものがあるんですよね。

これは対-人との分人に限らず、
社会的なニュースとの分人においても同じです。
この社会に身を置いている以上、
自身の人生を守るという意味合いでも、
政治の動向は知っておくべき事柄でしょうし、
そのことについて意見を持つことは大切と思います。

しかし、だからといってこの分人の比率が高くなりすぎると、
これまた私の精神安定は崩れてしまうんですよね。
最近テレビを見る時間が激減しています。
BGMにクラシックを聴くようになりました。
以前は集中して聴きたいと思っていたので、
BGMはあえて避けていたのですが、
こうしてBGMに身を置くと気持ちがいいんですよね。

その上、平野啓一郎氏にはまりまくったので、
空いた時間を読書に使うことが増えました。
テレビを見ながら本を読むなどという「ながら」は、
不器用な私にはできないので、
読書だけに没頭することになってしまいます。

足場となる主人、義父、生徒さんたちとの分人。
それに加えて、これまた足場となる音楽、文学、美術との分人。
こうしてみると私の足場の比率って、
全体の70%以上を占めているのではとすら思ってしまいます。

人によっては、
人生の足場となる分人の比率は、
30%程度でよいという人もいるかもしれませんね。
ところが、私の場合そうじゃない。
足場の比率は人それぞれで、
自分に向いた適度な足場の比率を知ることは、
大切なことなんじゃなかろうかと思ったり。

もちろんこれら足場に含まれる分人同士にも比率があり、
時期によっては足場として役割を、
一時休ませる分人も、私の中にはあります。

常に足場となっているのは主人と義父との分人でしょう。
それ以外の足場に含まれる分人は、
その時々に応じてという、柔軟性を持たせた分人です。
そして今の私は、
文学との分人が肥大化している、といったところでしょうか。

ところで、先日のブログ記事で、
分人同士の滲み合いについて書きましたが、
私にとって音楽、文学、美術との分人は、
いずれも滲みあったものとして意識的に形成しているものです。
音楽との分人、文学との分人、美術との分人と、
3つの分人に分けることなどできるのだろうか?というほど、
現在では滲み合い影響し合い、
ほとんど1つの分人になっているのではと思うほどです。

この5,6年の私の悩みは、
これらの分人が滲み合わないことにありました。
文学を通して音楽を感じる、
音楽を通して文学を感じる、
美術を通して音楽を感じる、
音楽を通して美術を感じる、
それを体感することのできない自分に苛立ち、
融合させたい、体感したいと熱望していたのです。

ようやく融合し始めたこれらの分人は、
対-人との分人とも密接な関係を持っています。
特に生徒さんや同業者の方々との分人においては、
必要不可欠な滲み合いです。

私の対-人との分人は、
家族以外では仕事関係がほとんどです。
そういう比率を自分で選んでいるとも感じます。
仕事が自分の居場所だという思いが強いからでしょう。
仕事関係の方々との分人は、
対-人ではない分人との滲み合い次第で、
展開していくと感じています。
そうしていきたいと思う私もいるのだと思います。

先程、ピアノ指導者の世界では、
対-人との分人比率を高めることが
流行っていると書きました。
しかし私は、対-人との分人だけを増やしていくことに、
とても危険を感じています。

もちろん私の対-人の許容量が、
一般より低いということもありますが、
分人の比率のほとんどが対-人というのは、
誰でも疲れてしまうものなのではないか?とも思うのです。

対-人との分人と、
それ以外との分人の比率をどう持ってくるのかは、
人それぞれと思うのですが、
自分に向いている比率を見極め、
自分に向いた比率で生きていくということは、
精神安定にとって大切なことなんじゃないかな、と。

それと同時に、
音楽に身を置くという仕事は、
対-人だけでは成り立たないだろうとも思うんですよね。
特に、教えるという仕事においては。
教える事柄との分人が自分の中になければ、
教えることなどできないのですから。
人に教えるというのは、
教える事柄との分人と、
教える人との分人の滲み合いなのではないでしょうか。

この2つの分人の比率をどう持たせるかは、
人それぞれと思いますが、
私は常に、この2つの分人同士の比率を思慮しながら、
これらの分人を育んでいきたいと思うのです。

全体における対-人との分人の比率、
全体におけるそれ以外との分人の比率、
対-人との分人とそれ以外との分人の比率、
これらはその時々の自分に応じて変化するはずで、
その時々の自分に応じた比率でないとき、
精神不安定に陥りやすくなるような気がしています。

全体の比率が、
自分に向いたものではなくなり、
精神不安定に陥ってしまうと、
どの分人も上手くいかなくなってしまいます。
主人との分人も、義父との分人も、
生徒さんとの分人も、
人生の足場としている分人に、
悪影響を及ぼしてしまうんですよね。

どの比率が今の自分に応じているのかを
常に模索しながら比率の調整を図っていくことが、
揺らがない自分へと導くコツなのかもしれません。


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2013年10月06日

「個人」から「分人」へ

NHKの対談番組で平野啓一郎氏に興味を抱き、
出版順に読み進めてきましたが、
とうとう『空白を満たしなさい』を読み終えました。
この作品を読み終えたとき、
「分人」という考えに共鳴する反面、
釈然としないものも感じました。


私は幼児教育学を学んできているので、
その影響が強いのかもしれません。
根本的なところが抜けているような気がして、
共感はしたものの、全面的な共感には至りませんでした。
そこで、この考えをもっと知ろうと
『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読むことにしました。


私が釈然としなかった理由は、
DNAがあるじゃないか、ということです。
私たちにとって最初の分人は母親となりますが、
何者にも影響を受けていないまっさらな状態、
分人が生まれる前の状態はどうなるの?と。
それは私という人間の本質に関わるものなのでは?
と思ったのです。

この点を否定することは、
とても危険なことのように感じていました。
しかし、この本を読んだところ、
平野氏はこの点を否定しておらず、
この存在を含めた上で分人を考えていました。

そして、もう一つ。
それぞれの分人は滲みあう、というのが私の考えでした。
『ドーン』でこのことについて触れられてはいたのですが、
よく理解できなかったんですよね。
そのため、分人同士を完全に分けて考えることに、
私は危険を感じたのでした。
本当にそれでよいのだろうかと。

ドーン (講談社文庫)
平野 啓一郎
講談社
2012-05-15



平野氏は”分人多元主義”という言葉で、
分人同士の滲み合いを表現しています。
平野氏は「混ざり合っているのがよいのか、
分かれている方がよいのか」と述べていましたが、
私は、これは選べないことだろうと思いました。

分人が生まれるというのは、ひとつの経験と思います。
これらの経験は望むと望まざるとにかかわらず、
自動的に自分の中に蓄積され、
新たに生まれる分人との関係に影響を及ぼすはずで、
分かれている方がよいのかなどと、
選択することなど可能なのだろうか?と思うのです。

「個性とは、常に新しい環境、
新しい対人関係の中で変化していくものだ」

この個性を分人が生まれる前のまっさらなものとするなら、
私はそれが自分の本質なのだろうと思います。
そして、その本質は確かに変化するもので、
私たちはこの本質を素材として、
様々な分人形成を展開させていくのだろうと思うのです。

私は、平野氏の考える分人同士の滲み合いについて、
まだ釈然としないものを感じています。
分人同士の滲み合いの中には、
素材である変化し続ける個性と、
それぞれの分人同士の関係が含まれるはずと思うからです。

誰かと出会い、
誰かの分人が形成されるたびに個性が影響を受ける。
その影響を受け、変化した個性で、
新たな分人が形成される。
もしくは、それまでの分人との関係を育んでいく。
その繰り返しなのではと。

私が分人同士の滲み合いは選べないと思うのは、
そういう意味においてです。
この点について、
似たようなことが語られているとは感じるものの、
平野氏が自分の本質ともいえる変化する個性を、
それぞれの分人において、
どういう位置関係に置いているのかが、
私にはわからなかったんですよね。


分人
私が考える分人像は上図のような感じです。
人との出会いによって素材は変化し、
その変化した素材によって、
それまでの分人も変化します。
そして、新たな分人は、
その時点で変化している素材によって、
形成されるのだろうと。

ところで、平野氏は分人の構成比率について、
興味深いことを述べています。
構成比率が変われば個性も変わると。
この構成比率をどうするかは自分次第です。
(子どもにおいては難しいことと思います。
子どもは環境を選べないので。)


この点について、私には実感があります。
10年ほど前のこと、
私はネット上の交流に夢中になりました。
しかしある時、ネット上にありがちな
人間関係のいざこざに巻き込まれてしまったのです。

私はこういうことが起きると、
鬱に襲われ、胃潰瘍になります。
不安定な精神状態から抜け出したくても、
なかなか抜け出せなくて、
始終苦しい思いに捉われてしまうのです。

このときの私は、
ネット上の分人に高い比率を与えていました。
毎日のようにネットを徘徊し、
掲示板やチャットでやりとりしているうちに、
ネット上の分人の比率が高くなっていたのです。

苦しくてネットから目を背けたとき、
「自分にとって本当に大切な人は誰?」
という疑問がふと浮かんできました。
果たしてネット上の人間関係は、
私の人生においてそんなに大切なものなのだろうか?と。

私の人生と関わりの深い、
本当に大切な人は誰?
私が本当に理解してもらいたいと思う、
心地よい関係でいたいと思う人は誰?

そこから見えてきたのは、
主人と生徒さんたちでした。
私にはこんなにも大切な、
かけがえのない人たちがいる。
万人に自分を理解してもらおうだなんて無理な話。
本当に理解してもらいたい、
心地よい関係を築き上げていきたいと思う人たちとの関係を、
大切にしていけばいいじゃないか。
そう思ったら、心の重石がスッと取れた気がしました。

このとき、私の中にある分人の比率が変化したのです。
ネット上の人間関係、たまにオフ会で会う程度の、
問題が生じた人間関係は、
私の人生の足場になるほどの重要な人間関係ではなく、
高い比率にしておく分人ではないと、
気付いたということです。
高い比率にすべき分人は、
もっと自分のそばにいるということに気付いたのです。

このとき以来、
人間関係で胃潰瘍になることがなくなりました。
もちろん眠れなくなりますし、
そのことに捉われがちにはなりますが、
自分の足場となる分人との関係がしっかりしていることで、
胃潰瘍になるほどの悩みに
襲われることはなくなったんですよね。

「好きな分人が一つずつ増えていくなら、
私たちは、その分、自分に肯定的になれる」

私が私の人生における足場を築くことができたのは、
主人と出会ったからでした。

「愛とは、相手の存在が、
あなた自身を愛させてくれることだ。
そして同時に、あなたの存在によって、
相手が自らを愛せるようになることだ」

愛情は心地よいものなのだと教えてくれたのは、主人でした。
愛情をこんなにも心地良く感じるだなんて、私にとっては驚きでした。
それまでの私にとり、愛情は自分をがんじがらめにする、
苦しいものでしかなかったからです。
そして私は、愛情を受け入れることのできない自分を
「私は冷たい人間なのだ」と責めていました。

こんなにも豊かな愛情と環境に恵まれているのに、
いつも寂しくて孤独を感じていました。
布団の中に入ると胸がキーンと痛くなります。
体に電気が走るとはよくいったもので、
本当にそういう体感があるんですよね。

胸から足のつま先、手の指先までキーンと電気が走る。
その感覚が嫌でたまらないのに、
一度その感覚に陥ると1分置きにやってくる。
この感覚を自分で止めることはできません。
次々に襲ってくる寂しいという気持ち。
私は愛情と環境にこんなにも恵まれているはずなのに。

こういう感覚に陥るようになったのはいつの頃からなのか。
思春期ならではのものだったのでしょうか。
中学生頃には頻繁にこの感覚に襲われていた気がします。

主人の愛情はとても心地のよいもので、
主人と一緒にいるときの自分が好きでした。
こんなにも寂しくなくて、
伸びやかな気持ちになれたのは、
初めての経験だった気がします。

「人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。
しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、
意外と言えるのではないだろうか?
逆に、別の誰それといるときの自分は嫌いだとも。
そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、
そこを足場に生きていけばいい。」

私は主人に出会ったことで足場ができ、
それを土台として、徐々にその足場を広げてきました。
最初の足場は主人との分人だけ。
その後、大学に入学して友人との分人が増え、
ピアノ指導者になり、
生徒さんや生徒さんの親御さんとの分人が生まれましたが、
それらの分人はどれも好きです。

自分に肯定的になれるということは、
自分の素材に肯定的になれるということですね。
その素材は長所だけでなく短所も含みますが、
そのどちらも受け入れられるようになる。
自分のよいところも悪いところもひっくるめて、
これが私なのだと素直に受け止めることができるようになる。

そこには卑屈さがありません。
卑屈さを抱えた人は、
誰と関わるときも、どの分人においても、
相手が自分をどう思っているか?
ということばかりが気になるものですよね。

私はそうでした。
人の目ばかりが気になって、
あの人はいいなぁ・・・、
そんな羨みをたくさん抱えていた気がします。
今は不思議と人を羨むということがありません。
私は私と思えるようになりました。

自分が相手にどう思われるかということより、
その人と気持ちよい時間を共有しようという思いを
大切にすることで、気持ちのよい分人が増えていく。
そんな気がしています。

『私とはなにか「個人」から「分人」へ』
わかりやすく書かれた薄い本で、
小難しい本ではありません。
お勧めの一冊です。


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2013年09月23日

哲学に思う素人雑感

カントなどの本を読むようになったのは、
職業柄学ぶべきものと思ったから。
興味がなかったわけではないけれど、
義務、自分に与えた課題という意味合いの方が強くありました。

読んでもよくわからない部分の方が多く、
理解できないために思考が停止し、
目だけが文字を追っているという読書。
こんな読書で意味があるのか?
本当に学びになるのか?と思いつつ、
とにもかくにも読んでいくしかないと、
ほんの一部ですが、何冊かを読んできました。

そのため、それらの本から私が得たものは、
全体的な”印象”となります。
詳細は理解できないけれど、
西洋哲学ってそういう思考回路を持っているんだ、というような。
最初は私がイメージしていた哲学と、
あまりに視点が違うので、かなり戸惑いました。
これが哲学なの?と。
でも、哲学にも歴史があるんですよね。
思考の変遷が。

噛み砕いて、
理解しながら読み進めたわけではない、
なぁんとなくの雑感。
西洋哲学をきちんと理解している人からしたら、
「何それ?」と言われそうですが、
これまで感じとってきた印象を、
整理したくなって書いています。

西洋哲学の始まりは、
自然って何なんだろう?から始まったような気がします。
古代ギリシャの哲学。
自分たちを取り巻く世界とは、一体何なのか?
人間対自然。(人間と宇宙)

中世に入り、
対象は自然ではなく神となったのではないでしょうか。
神とは何なのか?
人間対神。

神という存在が薄くなったルネサンス。
対象が人間そのものになったように感じます。
人間とは何なのか?
知とは何なのか?

そして、啓蒙時代。
再び人間対〜という対象が生まれたように思います。
それは、社会です。
社会における我々。
我々が作り出す社会。
社会とは何なのか?
社会に生きる人間とは何なのか?

現代はこの延長線上にある気がしています。
先日読んだ平野啓一郎著『決壊』も、
社会における生と死という印象を受けました。

哲学には、「対」という言葉が付きまといやすいようです。
人間「対」社会。
果たして、このように対立させた視点で、
人間とは何か?人生とは何か?という答えが、
導き出せるものなのだろうか?
私は疑問に感じています。

上手く言えないのですが、
社会が人間に及ぼすものと、
人間が社会に及ぼすものという、
相互作用がそこにはあると思うからです。
これは、対自然であったときも同様で、
自然が人間に及ぼす影響と、
人間が知覚し認識する自然には、
やはり相互作用があるんですよね。

相互という言葉もちょっと違う気はしているのですが。
もっと一体化したものなのだろうと感じるので。
私たちは体感を伴って自然を知覚・認識し、
体感を伴って社会生活しているんですよね。
そういう意味での一体化というか。

社会が複雑になるほど、
人間の活動領域が広がるほど、
対象物が増えて、わけがわからなくなっていく印象を持ちます。
体感を伴った知覚・認識というのは、
己と直接かかわりのあることと思うのですが、
社会に広がりが生まれ、メディアが発達すると、
体感していないにもかかわらず、
知覚・認識することが増えてしまうからです。

果たしてこれらを知覚・認識していると呼べるのか?
この体感を伴わない曖昧な知覚・認識をもって、
物事を判断し、自分の位置を測ることに、
私は疑問を感じています。
人間はもともと自らの体感を伴ったところで、
己という存在を知覚し認識していると感じるからです。

情報過多な現代は、
体感を伴わない情報に振り回されながら、
己という存在を知覚し認識しようと試みているように見えます。
そのために歪みが生じているのではと。
もっと単純でよい気がするというか。
体感を伴わない情報というのは、
1人の人間が許容できる知覚・認識を越えたところにある、
そう感じています。

なんでこんなことを考え始めてしまったのか。(笑)
平野啓一郎著の『決壊』に、
理由はわからないのですが違和感を感じたからなんですよね。
それは作品に対する違和感というより、
現代社会に対する違和感なのかもしれません。
己とは何なのか?
もっと単純な視点が必要な気がしています。

わけのわからない記事になっちゃいました。(^_^;)
あくまでも素人雑感です。
知覚・認識という単語の使い方も、
専門家からすると誤った使い方かもしれませんが、
そこはなんとなくで構わないので、
素人雑感と汲み取ってあげてください。(笑) m(__)m


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