知っておきたい!トレンド古典派音楽

2018年03月23日

知っておきたい!トレンド古典派音楽(9)

ナチュラルホルンを得意とするプロのホルン奏者で、フラウトトラヴェルソを愛奏する古典派音楽の愛好家にして音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲル代表の塚田聡さんに、私の興味が赴くままにインタビュー♪


無弁金管楽器の使用が今後の主流に?!
 
 (8)で、HIP(Historically Informed Performance)「過去に関する知見を生かした演奏」が本場ヨーロッパを中心に世界中で席巻し、今やピリオド楽器を使用する陣営とモダン楽器の陣営の間の壁はかなり低くなって行き来が自由になされているとお話をしました。今回はその続きで、さらなるHIP精神の浸透とその日本における状況などを見ていきたいと思います。


メンデルスゾーン:序曲〈フィンガルの洞窟〉
アントネッロ・マナコルダ指揮/カンマーアカデミー・ポツダム


 この動画は、ドイツの室内オーケストラ〈カンマーアカデミー・ポツダム〉による演奏です。このオーケストラはモダン楽器を使用するオーケストラですが、無弁のナチュラルホルン、ナチュラルトランペット(概ね19世紀前半までのピリオド楽器)が使用されています。金管楽器をピリオド楽器にすることにより絶対音量が抑えられ、他の楽器とのバランスが理想的となり、かつ長管のもつ独特な雑味がオーケストラに効果的なアクセントを与えているのが分かります。
 古典派の作品だけでなく、シューマンやメンデルスゾーンなどの作品でも、このように無弁の金管楽器が使用されるようになっている昨今のオーケストラ。この演奏では弦楽器と木管楽器についてはピリオド楽器を採用してはいませんが、HIPの精神にあふれた奏法[HIPについては(8)を参照]、かつアクティブな演奏で、〈フィンガルの洞窟〉の魅力が余すところなく表現されています。今、指揮者のアントネッロ・マナコルダとともに世界的に注目を浴びているオーケストラです。

 こうした金管とティンパニーをピリオドのナチュラル管を使ってベートーヴェンを演奏しようという試みは、遡ること1990年代の初頭からニコラウス・アーノンクールが試み始め、その後、伝統ある〈チューリヒ・トーンハレ管弦楽団〉がデイヴィット・ジンマンの元でシンフォニーの全集をCD化、さらにシューマンなどもこのスタイルで録音し話題を呼びました。
 現在、金管楽器をナチュラル管で古典作品を演奏しようという考え方は、決して一部のオーケストラだけの偏狭的嗜好ではなく、広く試みられ定着さえしているスタイルです。(8)で紹介した〈ドイツカンマーオーケストラ・ブレーメン〉、そして〈南西ドイツ・フィルハーモニー交響楽団〉、〈ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団〉などの名門オーケストラが、指揮者によりけりながら金管楽器をナチュラル管にして、HIPの精神をたっぷり取り込んで古典派やロマン派の作品に取り組んでいます。

 こういった先鋭的なピリオド奏法は、今やヨーロッパ各都市に蔓延し、我先にと競うように使用楽器や奏法に生かすことに躍起になっているという状況が見られます。例えば、ミュンヘンは今までの伝統に忠実で、重厚なドイツ的奏法を守る牙城だったのが、ついにこの街までがHIP精神溢れるピリオド奏法を受け入れるようになりました。
 ラッカデミア・ジョコーサ(L'Accademia Giocosa)というピリオド楽器を用いるバロック音楽の合奏団は、バイエルン放送交響楽団のメンバーからなっています。オーボエのシュテファン・シッリやフルートのヘンリク・ヴィーゼといったモダン楽器の超有名な首席奏者が古楽器に持ち替えて、なんとバロックの合奏団まで組織してしまったのです!

 そしてついに、全員がモダン楽器とピリオド楽器を持ち替えるオーケストラまで登場。
 〈カンマーオーケストラ・バーゼル〉はメンバー全員が両刀使い。ハイドン時代のピリオド楽器で、指揮のジョヴァンニ・アントニーニとともにハイドン生誕300年に向けてシンフォニー全集の録音プロジェクトを開始しました。しかし彼らはピリオド楽器の専門オーケストラではなく、別のコンサートではモダン楽器でロマン派以降のプログラムを演奏しているのですから驚異的です。この鮮烈なハイドンをお聴きください。


J.ハイドン:シンフォニー 第80番
ジョヴァンニ・アントニーニ指揮/カンマーオーケストラ・バーゼル


 カンマーオーケストラ・バーゼル&G.アントニーニのベートーヴェン第9番シンフォニーのYouTube動画もありますので、彼らの楽器の選択に注意してご覧いただければと思います。リズムの息づく生命力溢れる演奏に度肝を抜かれることでしょう。

 遅ればせながらも、このクラシック音楽演奏の改革とも言える大波は我が国にも到達しています。日本の既存のプロオーケストラでも、ナチュラル管の金管楽器を使用して演奏しているという情報が時折耳に入るようになっています。東京交響楽団は先日、ジョナンサン・ノットというHIP奏法に理解のある指揮者の元、〈ドン・ジョヴァンニ〉全曲をナチュラルホルンで演奏。山形交響楽団は古典派の作品を演奏する時は基本、ナチュラルトランペット&ナチュラルホルンで演奏しています。飯森範親指揮/山形交響楽団が先ごろ完成させた、ピリオド指向によるモーツァルトのシンフォニー全集は、まさにトレンドな記念碑的録音になっています(私もホルン4本編成の作品に参加しています)。


管の長い無弁金管楽器がオーケストラにもたらす効果とは?

— ナチュラルホルンといえば、今月3月13日に〈ナチュラルホルンアンサンブル東京〉の第2回コンサートがありましたね。ナチュラルホルンだけの演奏を聴くのは初めてだったのですが、まさに森の響きそのものでした。正直、最初は音質の不均等さに戸惑ったのですが、そのうちそれがとても心地良くなってきて、最後はもう「超気持ちぃ!」と大興奮。音色の変化が豊かで、特に塚田さんがいう「雑音」の入った音質というのでしょうか、そのはじけるような勢いにみずみずしい生命を感じて、これぞまさに屋外の楽器!と思いました。全身を伸びやかに解放させてくれる音楽ですね。この勢いのある音質があるかないかで、オーケストラの響きは大きく変わるのだろうと思いました。

 東京のプロオーケストラ所属のホルン奏者が集まって〈ナチュラルホルンアンサンブル東京〉というアンサンブルを組織しています。この演奏会で披露した作品はいずれも19世紀のものなんですよ。19世紀(ロマン派の時代)に入るとホルンはヴァルブがついて無弁のホルンは使われなくなっていくのでは?と思われるでしょう。大雑把な話ですが、クラシック音楽におけるオーケストラのレパートリの半分以上は無弁ホルンのために書かれたものなのです。フランスでは19世紀末の作曲家サン=サーンスやオッフェンバックもナチュラルホルンを指定して曲を書いていますし、ブラームスも作曲の際、心の音は当時ヴァルトホルン(森のホルン)と呼ばれていた無弁ホルンを描きながら作曲していました。
 中嶋さんがおっしゃられるように、ナチュラルホルンでは長い管に息を吹き入れるため、きれいに口元で発音しても「ブルッ」というような雑音が生じます。抵抗に抗いスピードのある息を入れると、シンバルかというような激烈な破裂音が出ます。しかし、音質は決して重くなく空気に溶け込むような音(これが高次倍音使用の効果:後述)なので、不必要に弦楽器や木管楽器の音を包んでしまわない。彼らを後ろから押し出すような効果的な響きを出すことができるのです。弱く奏でると柔らかな音質で、右手でベルを塞いだ音のくぐもった響きは神秘的な森の雰囲気。そんな体験をしていただけたのではないかと思っています。

 さて日本でも、こんな重要な楽器を無視していていいわけがない、とホルンについて言えば、優秀な奏者がこぞってナチュラルホルンに興味を示し、今やプロならば楽器ぐらい持っていて当たり前、というような状況になっています。頼もしいことです。〈バッハ・コレギウム・ジャパン〉を始め、どこのピリオド楽器を使用する国内合奏団に聴きに行っても、ホルンはすばらしいプレイを聴かせてくれていますよ。世界に誇れる価値のあることだと思っています。
 ちなみに「ナチュラルホルン」という呼び方は現代のホルンと区別するための呼称であり、18、19世紀にはそのような言い方はありませんでした。各国語で「ホルン」とか「狩猟ホルン」と呼ばれていました。

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https://natuhotokyo.jimdo.com
〈ナチュラルホルンアンサンブル東京〉のサイト

— ところで、お話を伺っていると金管楽器だけをピリオド楽器に、というのがHIP精神の主流なのかな?と不思議になるのですが。

 確かに金管楽器を見て無弁のナチュラル管だったら、そのオーケストラ、もしくは指揮者はHIP志向の強いオーケストラなのだな、と思って違いはないでしょう。
 管楽器の場合、管の長さ、が音色や倍音構造を決める際の重要なポイントになります。各木管楽器は、時代を経ても、長さ自体は基本的に変わってはいません。各々、数センチの単位で長くなって音域が上下に伸びてはいますが、ある一つの音高を出すにあたっては基本的には同じ長さの管を利用して音を出しています。弦楽器もスコラダトゥーラといって調弦を変えて演奏することがしばしば行われていたとはいえ、奏法さえ注意すれば、それなりの近似値の音を出すことができます。

 ところが、金管楽器の場合、管が長いと音が外れやすくなる上、長い管を通る音がくすんだ音に聴こえると否定的に捉えられてきたため、どんどん管を短くしていったという歴史があります。短い方が確実な演奏がより容易となり、なおかつクリアーな明るい音となるのです。
 トランペットの場合、現代のトランペットは大まかに言うと古典派時代の楽器と比べて半分の長さになっています。J.S.バッハの技巧的なトランペットを現代ではしばしばピッコロトランペットというひじょうに短い楽器で演奏しますが、バッハ時代のオリジナルの楽器と比べると、ピッコロトランペットは1/4の長さしかないのです。
 本来、金管楽器は長くてなんぼの楽器。その長い管に息を吹き込むと並ぶ自然倍音を利用して演奏するというのが基本的な考えの楽器群なのです。自然倍音列の上の方は全音階→半音階と密になっていて、そこを利用して演奏するから、あの高い音域での技巧的なパッセージになるのです。それをピッコロトランペットで4本のヴァルブを駆使して吹くとどういう音質になるか。
 第10倍音で演奏する音(ナチュラルトランペット)と、第2倍音で演奏する音(ピッコロトランペット)は同じ高さの音になりますが、音の密度が全く異なるものになります。
 高次倍音は空気に溶ける風のような軽い音。煌びやかな音と形容してもいいでしょう。基音に近い倍音は、つんざくようなはっきりとした輪郭をもつ重めの音になります。

 またラッカーという石油由来の皮膜を管体に塗布しているか、素のままの真鍮かというのも音質に大きく関わってくる問題です。
 長い管でラッカーのかかっていない楽器を使用してオーケストラ内で演奏すると、唯我独尊にならずに、他の楽器に溶け込む音を出すことができます。この基本的な価値観に最近トランペット奏者自らが目覚め始め、トランペット界の感性の転換が起こっています。今のところヨーロッパに限った現象になりますが、トランペットから徐々にラッカーが剥がされ始めているのです。戦前のトランペットにはラッカーはかかっていませんでした。金管楽器の本来の響きを取り戻そうと自問しだしたそうした奏者から、指揮者にナチュラル管での演奏を自ら提案するようになってきています。


— 奏者側から意識が変わってきているというのは、とても興味深いですね。ところで、他の木管楽器や弦楽器はモダン楽器のままでバランスは悪くならないのでしょうか。

 金管楽器がナチュラル管になりつつあるのには他にも理由があります。金管楽器だけが突出してパワフルになり、オーケストラ全体のバランスを崩すようになってしまった、という理由です。これについては、特に現場ではうなずく方も多いと思います。金管楽器のパワーに負けないように他の奏者たちも力づくで演奏し、いつしかオーケストラがハーモニーの融合よりも、パワー対パワーのぶつかり合いの場と化してしまいました。本来のバランスを取りもどさなければ作曲家の描いた響きから離れるばかり、と自問しだしたオーケストラの良心は評価されるべきことです。
 木管楽器や弦楽器でも、以前のようなパワーに偏重した楽器や奏法から、弱さ・柔らかさの方向へ多彩なニュアンスが表現できる楽器が好まれるようになってきています。ぶっとい音のオーボエ、力づくでヴィブラートを濃厚にかけるフルート、圧を抜かない弦楽器、そのようなニュアンスの伴わない演奏が軽蔑されるようになってきているのは確かな傾向です。
 金管楽器は目に見える改革が行われていますが、そのような楽団では、他の楽器も確実に変化してきています。弦楽器は弦をスチールやナイロンから、天然素材のガット弦に替えてみたり、弓を古典派時代の反りの緩いものを使用したり、細かく見ていくと確実な違いが見られます。また最近、木製のフルートを吹く人が増えましたよね。

 30年以上前のオーケストラの響きと、最近のオーケストラの音づくりの違いを定点観測してみるとそれはおもしろいですよ。〈ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団〉や〈ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〉などの名門オーケストラの今昔聴き比べ。ヴァイオリン奏者の奏法の変遷など、音源を探し聴き比べをしてみると、さまざまなことが実感できると思います。


塚田 聡(つかだ さとし)
東京芸術大学卒業後アムステルダムに留学、C.モーリー氏にナチュラルホルンを師事する他、古典フルートを18世紀オーケストラの首席フルーティスト、K.ヒュンテラー氏に師事するなど古典派音楽への造詣を深めた。2001年に再度渡欧、T.v.d.ツヴァルト氏にナチュラルホルンを師事する。音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲルの代表。
・ディスコグラフィ・
ナチュラルホルン〜自然倍音の旋律美と素朴な力強さ
森の響き 〜ドイツ後期ロマン派・ブラームスの魅力〜
・ホームページ・
ラ・バンド・サンパ
古典派シンフォニー百花繚乱
シューベルト研究所
ナチュラルホルンアンサンブル東京



emksan at 09:20|Permalink

2018年03月01日

知っておきたい!トレンド古典派音楽(8)

ナチュラルホルンを得意とするプロのホルン奏者で、フラウトトラヴェルソを愛奏する古典派音楽の愛好家にして音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲル代表の塚田聡さんに、私の興味が赴くままにインタビュー♪

知っておきたい!アーノンクール、レオンハルト、ホグウッド

 戦後のクラシック音楽は、LPレコードの普及に伴い世界のどこでも等しく聴かれる得難い機会を与えられました。そこではしかし少数の選ばれた演奏家が奏でる音楽をありがたく拝聴する、彼らの演奏が絶対的に崇拝される、という傾向をもたらしました。  
 往年の名演奏家の演奏を聴くと私も圧倒されることしばしばで、それらの演奏に対する敬意はもっているのですが、しかし、音楽とは直接関係のない、ショウマンシップから来る見得だったりはったりだったり(必ずしも悪いことではありませんが…)、余計なものが付いているように聴こえてしまうのも正直なところです。  
 そのようなところに登場したのが、厚化粧を削げ落す古楽器のアプローチでした。ピリオド奏者たちの提案は、クラシック音楽がみな権威づけられた作品ではないこと、民族音楽であったり、踊りの音楽であったり、BGMであったり、詩吟のように小声で歌われるものであったり、と多様な音楽があることをあぶり出してくれる効果がありました。


— 古楽器の研究はいつ頃から始まり、どのような経緯で現在に至っているのでしょう?

 作曲された当時の楽器を用いて、過去に関する知見を最大限に生かして演奏しようという動きがいつから始まったのか、その歴史を論じようとすれば、メンデルスゾーンやブラームスの時代にまで遡る大論文になってしまうのですが、古典派時代の作品がピリオド奏法によって今日ここまで活況を呈するようになった、その大まかな流れについて見てみましょう。
 古楽の研究は、楽器そのものの伝統が途絶えてしまった時代の楽器を蘇らせることから始まりました。ルネサンス時代の諸楽器、ヴィオラ・ダ・ガンバやチェンバロなどバロック時代の楽器。フルートやホルンなども現代の楽器とは全く異なるものだったので、それらのオリジナルの姿を復元する探求が始まります。
 楽器そのものに加えて、それらの楽器を演奏するにあたって直接関わる問題、ピッチ(A=440Hzではなかった)、音律(平均律ではなかった)の研究。そして、音楽をどのように演奏していたか。今日の演奏法とは異なるフレーズのつくり方、強弱やテンポ・ルバートについての考え方、通奏低音の奏法、装飾について、即興についてなど、連動して明かされてゆきます。
 ピリオド楽器を用いた演奏は、その初期には取り組む演奏家も少なく、説得力のある演奏をなかなか提示することができなかったのですが、アーノンクールとレオンハルトが組んでJ.S.バッハのカンタータ全集に取り組みだす頃(1970年代)から、徐々に研究の成果が演奏に結実して行くようになります。


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バッハ:教会カンタータ全集(60CD)
アーノンクール、レオンハルト、ウィーン少年合唱団、テルツ少年合唱団ほか
Warner classics 
カタログNO:2564699437


 当初、これらのオリジナル楽器による復活上演はもっぱらルネサンスやバロック時代の研究・演奏に割かれていました。そこに一定の成果が収められ、オリジナル楽器での演奏が世の中にも認められてくると、ピリオド系の演奏家が古典派の時代の音楽にその触手を伸ばしていくようになります。  
 皮切りになったのは、クリストファー・ホグウッドがピリオド楽器のオーケストラでモーツァルトのシンフォニー全集の録音を完成させたことでしょう。1985年のことです。オーケストラ団員が新しく出現したモーツァルトの姿に興奮している様子が今でも伝わってくる、新鮮さを失わない好演で、高校生の私にモーツァルトのすばらしさを教えてくれたかけがえのないアルバムです。


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1978年からピリオド楽器を用いてモーツァルトのシンフォニー全集の録音を開始したクリストファー・ホグウッド。高校時代に友人とそれらLPを夢中になって聴いたのが、私にとってのすべての始まりでした。

ピリオド系の語り口を物にしていく大指揮者たち。HIP精神溢れる演奏が現代の世界標準!

 しかし当時、世の既存のオーケストラにそのスタイルが受け入れられるなんていうことは夢にも考えられないほど、両者の陣営の間には高く硬い壁が聳え立っていました。  
 確かに、1991年のモーツァルト・イヤーに向けて録音されたウィーンフィル初のモーツァルト全集(指揮:ジェイムズ・レヴァイン)は、旧全集の楽譜を元に録音したカール・ベーム指揮のベルリンフィルの全集と比べると、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを向かい合わせに座らせる対向配置を取り、速目のテンポ設定をとるなど新機軸を打ち出した革新的な演奏と当時歓迎されましたが、その後のモーツァルト演奏の流れの中から今振り返ってみると、なんとも中途半端な全集となってしまっています。  
 1980年代の後半になると、ピリオド楽器のオーケストラは、競うようにベートーヴェンのシンフォニー全集の録音を始めます。  
 モダン楽器の演奏家の方も最初は、訝しげにそれらの新しい動きを見ていたのですが、説得力のあるピリオド系奏者が繰り出す演奏を無視し続けるほど野暮ではなく、紆余曲折がありながらも次第にピリオド系の指揮者、アーノンクールやガーディナー、ノリントンを指揮者に迎え、彼らの語法を学び始めます。   
 そうこうするうちに大指揮者たちも次々にピリオド系の語り口を物にしてゆきます。チャールズ・マッケラス、サイモン・ラトル。そしてクラウディオ・アバドもその一人と言えるでしょう。  
 彼らスターがこれまでとは全く異なるアプローチでモーツァルトを演奏しだすと、これはどういうことだ!とその動きに遅れまいと一気に演奏改革が進みました。この改革に最後まで腰を上げなかったのは、伝統を重んじるドイツだったのですが、今、しなった弓が一気に跳ね返るように、ドイツがもっとも熱くピリオド奏法で古典派時代のオーケストラ作品を演奏するようになっています。 



ベートーヴェン シンフォニー第9番 ニ短調 作品125 パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツカンマーフィルハーモニー・ブレーメン

 今、この演奏がベートーヴェン演奏の世界標準と言えるのではないでしょうか。このオーケストラは著名なモダン楽器によるオーケストラですが、ここではトランペットがナチュラル管を採用。ティンパニーも硬いバチを使用してアクティブに演奏しています。弦楽器への近接カメラで確認できますが、従来のような闇雲にヴィブラートをかけて、長い音に圧力をかけて、というような演奏法とは異なるベートーヴェンです。(奏者毎に必ずしも統一されているわけではありませんが)弓使いの軽やかさ・速さに注目してください。彼らはただ指揮者からの指示を受けて表面的にピリオド奏法を真似ているのではなく、スタイルを学び自分たちのものとしてから全集録音に取り組んだとのことです。まさしくピリオド系のノリントンなどの指揮者が30年前に物議を醸しつつ打ち出した演奏スタイルをなぞっている、と言っては失礼な表現かもしれませんが、いわゆるHIP(後述)の精神にあふれた演奏です。  
 ノリントンはロンドン・クラシカル・プレイヤーズというオーケストラを率いて、1980年代にピリオド楽器でもっとも早くベートーヴェンのシンフォニー全集の録音をした指揮者の一人です。ベートーヴェンの指定したテンポの固持、スピードと鋭角的なフレージングでそれまでとは全く異なるベートーヴェン像を示したことで当時大変な物議をかもしました。

ピリオド楽器は発展途上の未熟な楽器ではない?!

— モダン楽器を演奏する人はピリオド楽器を「古い未熟な楽器」として卑下しているというイメージが私にはあったのですが、それは1980年代のイメージで、今はずいぶん変わってきているのですね。

 例えば、1750年ごろ(バロック時代から古典派の時代への移行期)の一般的なフルートには、右手小指にキーが一つしかついていませんでした。管体は先に行くほどしぼむ錐形、木は柘植や黒檀などで金属に比べると相当重量が軽くなります。大きな音はしません。下の1オクターブは鳴りません。ニ長調の運指は簡単ですが、フラット系の曲にはめっぽう弱い。鳴る音があったり鳴りにくい音があったり、半音階を吹くとかなり不均一な感じになります。そのまま吹くと音程が悪く、吹く角度をいちいちつくって音程を調整しなければなりません。  
 現代のフルートはぴかぴかの金属で、大きな音で上から下まで均一に鳴らすことができ、きれいな半音階を奏でることができ、調性による得手不得手もない完璧なシステムで作られています。穴にはカバーがあるので、確実にメカニックに音を替えることができます。音は豊かで大きな会場でもすみずみまで響き渡り、ヴィブラートがかけられメタリックな輝きを放ちます。  
 しかし、木製の1キーフルートが現代の金属のフルートと比べて発展途上の未成熟な楽器かというと、バッハのフルートソナタ、モーツァルトのフルートコンチェルトが未成熟な作品ではないのと同じ意味で未成熟な楽器とは言えないのです。  
 当時の音律(シ♭とラ♯は異名同音ではなく、異名異音だった)、共演楽器(チェンバロやヴィオラ・ダ・ガンバ)との音量バランス、管体の軽さからくる高次倍音の豊かさ、発音時の明快さ、おしゃべりをするようなアーテュキュレーション、濃厚な調性感覚、不均等の価値観に根ざす音楽への相性の良さ、音の圧力よりもシェイプの似合う音響構造、音楽を需要する人々の価値観の違い、そのほかさまざまな理由により、1キーフルートでジョリベやイベールが演奏できないのと同じように、現代のフルートがバッハやモーツァルトの価値観に寄り添うのは実はとても難しいことなのです。


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18世紀半ばにつくられた1キーフルート。このシステムでバロック時代の作品はもちろんのこと、モーツァルトのフルートコンチェルトまで演奏できてしまう(塚田蔵)。

 おっしゃる通り、ピリオド系陣営とモダン楽器陣営の間には、かつてお互いを軽蔑し合う対決の構図がありました(今でもピリオド系の奏法を絶対に受け入れない演奏者がいないわけではありませんが)。  
 それが今やヨーロッパの演奏家は誰しもが多かれ少なかれHIPの精神を身につけ、楽器の持ち替えも厭わずに古典派やバロックの作品に取り組むようになっています。 (モダン楽器を使用しても)過去に関する知見を生かした演奏のことをHIP(Historically Informed Performance)と呼び、現在のクラシック演奏の重要なキーワードとなっています。  
 古典楽器のポジティブな側面に共感し、一度HIPの演奏態度に敬意を表するや、モダン陣営の演奏家の変貌ぶりは驚くほど速く、18世紀の作品に限らず、ブルックナーやヴァーグナーなど後期ロマン派の作品にもHIPの精神を反映させた斬新な演奏をするようになってきています。重くて濃厚なヴィブラートがべっとりとかかった壮麗な響き、という価値観から解放され、テクスチュアが透けて見えるような線で描かれたフレーズとフレーズの絡まり、強調された和声感、生き生きとした拍節感などが、作品に今生まれたてというような新しい息吹をもたらすことに彼らは喜びを見出しているようです。  
 現在、プロならば誰しもがHIPの語法を踏まえていることが当然、当たり前とされるようになってきました。ピリオド系、モダン系両者の垣根はかなり低くなり、どちらの楽器も演奏する達人、また曲に応じて弓や楽器を持ち替えるオーケストラも今や珍しくなくなりつつあります。  
 これは2017年春のベルリンフィルのモーツァルトの演奏です。



モーツァルト:シンフォニー 第35番 ニ長調 K.385より第4楽章 キリル・ペトレンコ/ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

 きびきびとしたテンポ、はっきりした発音、抑制されたヴィブラート、圧力よりもシェイプによる音楽づくりなど、未だ中途半端ながらも、ピリオド系の演奏家からの影響が濃厚な演奏です。カラヤンの時代には考えられなかったこの変貌を体感してみてください。
 この変革の根にはピリオド系演奏家による研究・実践が想像以上に大きな関わりをもっているということをご理解いただけたと思います。ロマン派以降にも影響力を振るうHIPの精神、またそれらが教育界にも確実に及ぼしつつある影響について、さらに引き続き次回以降見ていきたいと思います。



塚田 聡(つかだ さとし)
東京芸術大学卒業後アムステルダムに留学、C.モーリー氏にナチュラルホルンを師事する他、古典フルートを18世紀オーケストラの首席フルーティスト、K.ヒュンテラー氏に師事するなど古典派音楽への造詣を深めた。2001年に再度渡欧、T.v.d.ツヴァルト氏にナチュラルホルンを師事する。音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲルの代表。
・ディスコグラフィ・
ナチュラルホルン〜自然倍音の旋律美と素朴な力強さ
森の響き 〜ドイツ後期ロマン派・ブラームスの魅力〜
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emksan at 09:37|Permalink

2018年02月14日

知っておきたい!トレンド古典派音楽(7)

ナチュラルホルンを得意とするプロのホルン奏者で、フラウトトラヴェルソを愛奏する古典派音楽の愛好家にして音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲル代表の塚田聡さんに、私の興味が赴くままにインタビュー♪

けしごむをください⇒えいおうをうああい?!子音の雑音こそが命!

— (6)のソナタ形式のお話しで、「人物登場の際には明確に新キャラクターを紹介するつもりで区切って演奏することがコツとなる」というお話しがありました。私は、モダン楽器より古楽器の演奏を聴いたときの方が、キャラクターの違いがはっきりと聴こえてきて、また面白さを感じるのですが、塚田さんは古典派音楽を演奏する際、モダン楽器と古楽器にどのような違いを感じていらっしゃいますか?

 おっしゃる通り、ピリオド楽器(古楽器と言ったり、オリジナル楽器と言ったりしますが、同時代楽器という意味のピリオド楽器と言うのが一般的になってきています)による演奏は子音を明確に、おしゃべりをするように演奏するので、はっきりとした輪郭が出てくるという印象になります。 
 母音ばかりだと一聴柔らかく心地よいのですが、何を言っているのか分からない演奏になってしまいます。例えば「けしごむをください」から子音を取り除いて「えいおうをうああい」って口を動かさないで言われたら何を言われているか分からないでしょう?
 音の立ち上がりの表現力は確かにピリオド楽器系とモダン楽器系の大きな違いになると思います。
 モーツァルト時代の楽器、弦楽器だとガット弦のカリッ、チリッというような小気味のよい発音。ピアノだとフェルト(羊毛を機械で圧縮したもの)ではなく、鹿皮の小さなハンマーで弦を叩くので、やはり明確な発音が得られます。管体の軽い木管楽器の明瞭な発音、そして金管楽器は管が長い分、軽くアタックをつけるような初速がないと楽器が鳴りません。
 現代(モダン)楽器による演奏は、音の出だしがブルンだとかカリだとか雑音が入るのを嫌い、なるべくなめらかに発音するのがよいと一般的に推奨されています。しかしそれら、頭につく種々の雑音こそ実は命で、それがないと、冒頭の「けしごむをください」の母音だけ版のようになってしまうのです。

Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt;

 これはベートーヴェンのシンフォニー第9番の歌詞の一部ですが、単語頭の子音を様々な口の形をつくって発音してみてください。Dは上口蓋から舌の離れた時の勢い、Zは舌が上口蓋から離れる時の摩擦音、Bは唇を思いっ切り離す時の破裂音、Wは上の歯と下唇の間で起こる摩擦音。Mではしっかりと口を閉じ、Sはドイツ語の場合強烈な摩擦音を伴います。Gは口の奥で起こる堰きを切るような勢い。
 この一行だけでも子音の多彩さは大変なもんです。またドイツ語には子音がダブル・トリプルになることも多く(Streng, Flugel, Gros, Freude, Schwester…)、歌うときも、つばを飛ばしつつ子音で表現してゆくのです。古典派の音楽は語る要素からなる音楽なので、器楽でもよっぽど子音を立てなければならないということをご理解いただけますでしょうか。


— 本来ならモダン楽器でもそう演奏されるべきところ、いつからか、こういった摩擦音や破裂音などが嫌われるようになり、それが本来豊富な子音を生かすべく(摩擦音ありきで)作曲された古典派の音楽にも当てはめて演奏されるようになってしまった、ということでしょうか。いつ頃からこういう傾向になったのでしょう?

 SP復刻など昔の演奏家の録音がCDやストリーミング等で容易に聴くことができるようになり、そんな疑問をもちながらかつての巨匠の録音を聴いているのですが、トスカニーニは、そんなの無理、というぐらいの猛烈なスピード感のある弓使いと舌つき(管楽器は舌で子音を表現します)で、スピーカー越しに唾が飛んできそうな勢いがあります。 
 しかし、これも巨匠スタイルのフルトヴェングラーになると、初速の勢いよりも音圧の方が強調されています。一概にいつの時代から子音の表現が弱まってきたと決めることはできませんが、こんな興味深い話を本で読みまして、それをここで紹介したいと思います。

 バロックフルートのパイオニアであり古楽界を牽引してきたバルトルド・クイケン氏の著した「バロック音楽の演奏法〜楽譜から音楽へ」の邦訳本がつい先頃出版となったのですが、そこに驚くべき、そしてなるほど、と頷けるエピソードが紹介されていました。かいつまんで紹介しましょう。詳細はぜひその新刊書をお読みくださいね。
 20世紀中頃にもっとも影響力のあったレコーディング・ディレクターの一人、ウォルター・レッグと指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの間で、次のように弦楽器の響きを発展させたと紹介されています。

精巧に磨かれ、美のない世界とは無縁の、非常に輝かしく、出だしで雑音のないフォルティッシモ・・・。私たちは数年間、弦楽器はつねに弾き始めからヴィブラートをかけ、弓はすでに弾く前から動き始めているべきだという考えのもとに共に活動した。もし動き出す弓がすでにヴィブラートをかけられている弦に触れれば、美しい入りになる。しかし、もし十分にヴィブラートがかけられていない弦に弓が直接当たれば、カチャッとした音が出るだろう。
《楽譜から音楽へ》バルトルド・クイケン著 越懸澤麻衣訳 P.94より

楽譜から音楽へ バロック音楽の演奏法
バルトルド・クイケン
道和書院
2018-02-07



 このカラヤンの言葉は、彼の演奏にそっくり反映され実現されています。しかも、あらゆる時代の作品に。
 カラヤンはまさに子音の立った音を雑音とみなし、美しい音楽から排除すべきだと考えたのです。カラヤンの影響力は絶大で、十分にヴィブラートがかけられ、発音時にカチャッとしたような雑音が入らない音こそが弦楽器の、そして全ての楽器の音という価値観を世界に満遍なく広めることに成功しました。

 カラヤンの指揮姿って目をつぶって、タクトをあまり叩かず水平方向に動かしている印象がありませんか?それが若かりし頃のカラヤンって、1950年代のモノクロの映像を見ると、身体が切れんばかりに縦に激しく振っていたのですよ。
 ライブではなく、レコーディングセッションを組みステレオでオーケストラが世界のどこででも聴かれるようになると、ご存知の通り、彼は帝王としてクラシック界に君臨してゆきます。彼のタクトから生み出される音楽は、謹厳で重厚で高貴な姿に変貌してゆき、その音楽は商業的にも成功し崇めたてまつられ、世界標準となっていったのです。


第2次世界大戦前まで各国異なる楽器を使用していた?!オーケストラがグローバル化する以前の演奏とは?

— 世界標準といえば、第2次世界大戦前までヨーロッパ各地では異なる楽器が使用されていたんですよね? 私はここ最近そのことを塚田さんから教えていただいて驚いたのですが、カラヤンはまさに楽器がグローバル化する過渡期に活躍した指揮者なのですね。

 楽器も違えば奏法も違いました。私が学生時代ぐらいまで(30年前)は、レコード越しでも一聴してどこの国のオーケストラかすぐに分かったものです。特にオーボエとホルンは国ごとの特徴が顕著で、主にそのふたつの楽器を手掛かりにオーケストラが特定できましたね。 
 かつて(概ねLP時代)の各国におけるホルンの一般的な音色の傾向を言葉で表現してみると(受け取り方には個人差がありますので実際に聴いてみてくださいね)、フランスのホルンはピストン・バルブ(他の国々はロータリー・バルブ)で管が短いので薄い音なのですがほんのりとヴィブラートがかかっていました。ロシアのホルンはヴィブラートが濃厚。オランダと東欧のホルンは暗く輪郭までぼやけ気味。アメリカのホルンは、長い管を好む傾向があり、やはり肉厚な傾向がありました。イギリスのホルンは明るめの音を指向、ドイツのホルンは芯があり明るくノーブルな音、ウィンナホルンはまたシステムの異なる楽器で、柔らかさから強奏におけるブラッシーな猛々しさまで幅広い表現力をもつ、などなど。
 ところがグローバル化の波は各地にあるオーケストラの上にもザブンザブンと襲いかかり、その個性を平均化していきました。
 ファゴットではなくバソンというフランスらしい明るく軽やかな音色をもつ楽器、また今紹介したピストン・ホルンなどを用い、フランスの音を誇りに演奏を繰り広げていた「パリ音楽院管弦楽団」は、時の文化相の、「フランスにも世界に誇るオーケストラを」という要請の元、1967年に解散されてしまいます。「パリ管弦楽団」へ発展的解消と言うと言葉はいいのですが、進められたのはフランス独自の音色を追求することではなく、ベルリンフィルやニューヨークフィルに対抗できるオーケストラ・サウンドをということで、フランスでしか用いられていなかった管楽器が、指揮者、カラヤンやバレンボイムの元、どんどん世界標準のものに替えられていったのです。

s-ピストン・ホルン
[写真:かつてフランスのオーケストラで用いられていたピストン・ホルン]

 せっかく戦争では勝ったフランスもドイツに対して完全降伏です。カラヤンはグローバル化過渡期に活躍というよりも、そこに隠されたドイツ絶対主義の首謀者と言えなくもありません。本人がどれだけそれを意識していたのか分かりませんが。
 パリ管弦楽団はすっかり骨抜きにされ、ドイツシステムの管楽器がフランスシステムの中に中途半端に混ざり合い、楽器ばかりでなく奏法も変化を強いられました。かつてのパリ音楽院管弦楽団の音色からはかけ離れた、個性の乏しい凡庸なオーケストラのひとつとなってしまったのです。
 19世紀に栄華を誇ったプレイエル・ピアノが、世界統一規格のアクションを取り入れる中で、プレイエルにしかなかった美点に気づくことなく、かつての楽器とは似ても似つかないものになってしまったことなどと軌を一つとする話です。

 エスプリなどと表現される、言葉にできないような曖昧さ(それこそ芸術)は、グローバリズムの分かりやすさが求められる世の中では簡単に吹き飛ばされてしまうのですね。アンドレ・クリュイタンスやジャン・マルティノンといった指揮者との怪しげなエスプリのぷんぷん香るかつての演奏は、スピーカーの奥にしまい込まれたまま、もう生演奏として再現されることはないのでしょうか。
 いや、今、フランスの演奏家は不死鳥のごとく再び立ち上がりつつあります。自国人だから気がつくこの失われた半世紀を取り戻すべく、彼らは動き出しました。


[ストラヴィンスキー作曲〈春の祭典〉フランソワ=グザビエ・ロト指揮レ・シエクル]

 この動画をご覧ください。演奏は6:00から始まります。オーケストラを見慣れている方でも、一見して今のオーケストラで使用されている楽器との違いは分からないかもしれませんが、その楽器を演奏したことのある人でしたら、マイナーな部分が今の楽器と異なることが分かるでしょう。
 この演奏団体は〈春の祭典〉の1913年初演当時の楽器を集めて演奏しているピリオド・オーケストラなのです。初演から100年後にあたる2013年のプロムス音楽祭における演奏です。
 まず冒頭でソロを吹くバソンは見た目にも異なりますね。ホルンも大写しになりますが、これがピストン・ホルンです。トロンボーンもチューバも小ぶりです。
 それから違うのは楽器そのものだけではなく、奏法も自信をもってフランスの奏法を取り戻していることです。録音で違いを感じるのは難しいかもしれませんが、オーボエ、クラリネットの絹の手触りのような音質。弦楽器もガット弦(ヴァイオリンの1番線は裸)を使用しているので、今のオーケストラとは響きが異なります。
 そして改めて驚くのは、これらの楽器の音質をもってすると、ストラヴィンスキーの意図した、異教の神秘性だったり原始の残虐性のような音響がまざまざと蘇ることです。
 一度手放してしまった楽器をふたたび手にして集結したフランス人演奏家。どうでしょう、ここではフランス音楽ならではのエスプリが表現されているではありませんか?消滅したかに見えたフランスの音をふたたび手に入れる役を演じたのは、ここでもピリオド楽器による演奏だったのです。

 しかし、これらのグローバル化の波から自国の音楽を救い出そうという各国の動きは、新たな問題を、特に西洋クラシックの伝統のない我々日本人に投げかけました。
 これまでグローバル化の中で、まさしく文字通り、地球に住むものならば誰でも演奏できたクラシック音楽が、実は各国の民族音楽であり、その国以外の民族が、本質に迫る演奏をすることができるのか、と問われているように思うのです。
 事実、このオーケストラ〈レ・シエクル〉の民族純粋度合いは高そう。少なくともみなさんフランス語で会話をしているでしょう。ここに、ホルンがいくら上手だとしても、フランス語が達者じゃない人が入って演奏できるでしょうか。「それはフランス語のaccentじゃないぞ」、と言われたらもうお手上げ、というような濃密さがこの〈春の祭典〉の演奏にはあるのです。
 「歌は世につれ 世は歌につれ」、移民排斥を謳う保守政党の台頭する世の中の動きに連動して、生まれ出るべくして生まれ出たフランスに特化したオーケストラ。
 皮肉になりますが、我々日本人の演奏家にとっては、カラヤンやイ・ムジチ合奏団のつくった世界企画のクラシック音楽、分かりやすく慣らされグローバル化された演奏は実は非常にありがたい賜物だったのかもしれません。

 話題がちょっと古典派から遠ざかってしまったので、最後に古典派に触れてこの回を締めようと思います。
 私的さらには民族的な音楽になってゆくロマン派の前に位置する古典派の時代は、汎ヨーロッパ的な音楽が意識されていた時代です。全人類に理解できる音楽というのがトレードマークの古典派音楽。おいおいそういったお話しもできればと思っています。



塚田 聡(つかだ さとし)
東京芸術大学卒業後アムステルダムに留学、C.モーリー氏にナチュラルホルンを師事する他、古典フルートを18世紀オーケストラの首席フルーティスト、K.ヒュンテラー氏に師事するなど古典派音楽への造詣を深めた。2001年に再度渡欧、T.v.d.ツヴァルト氏にナチュラルホルンを師事する。音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲルの代表。
・ディスコグラフィ・
ナチュラルホルン〜自然倍音の旋律美と素朴な力強さ
森の響き 〜ドイツ後期ロマン派・ブラームスの魅力〜
・ホームページ・
ラ・バンド・サンパ
古典派シンフォニー百花繚乱
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2018年01月28日

知っておきたい!トレンド古典派音楽(6)

ナチュラルホルンを得意とするプロのホルン奏者で、フラウトトラヴェルソを愛奏する古典派音楽の愛好家にして音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲル代表の塚田聡さんに、私の興味が赴くままにインタビュー♪

ソナタ形式にはいろんな型がある!モーツァルトは『劇場(登場人物)型』?!

— ソナタ形式というと、頭でっかちに聴いてしまいがちになるのですが、(5)でお話しくださったように物語を感じて聴くと、また違った景色が見えてきますね。《フィンガルの洞窟》の再現部で提示部とは異なる楽器(2本のクラリネット)で演奏されるところなんて、提示部とはまた違った心象風景に聴こえるのですから本当に面白いです!

《フィンガルの洞窟》は典型的な『物語型ソナタ形式』ですね。って自分で勝手に名づけたのですが。
ソナタ形式を現在の音楽の教科書では一般的な雛形として、「第1主題提示部→推移部→第2主題提示部→推移部→小終結部→展開部→再現部(提示部と同じ流れ)→終結部」のように解説していますが、この雛形を絶対的な完成形としてしまうと、そこから外れたものは、未成熟な作品とみなされてしまう危険性があります。 ソナタ形式の曲全てがこの雛形に沿って作曲されているのではなく、いろいろな型があるというお話を今回はいたしましょう。 

私は高校時代、「ソナタ形式オタク」でベートーヴェンの信奉者でした。ベートーヴェン視点でモーツァルトを眺めると、モーツァルトは形式的に未熟な作曲家に見えてしまって、あろうことか軽蔑の眼差しを送っていたのです。言い訳すると、その後すぐにその未熟な自分に気がつき、大学時代はモーツァルト一色になったのですが。 まあそんなことはさておき、はっきり言うと、モーツァルトの作品にはいわゆるこの教科書的ソナタ形式の雛形に自然に当てはまる曲は存在しません。無理やりに当てはめようとすれば後期の作品に無くはないのですが、それでもパチっとははまらないのです。
現在の教科書に書かれているようなソナタ形式の雛形って、当時の作曲家にそれが意識されたのは、古典派の終盤になってからです。かといって当時はもちろん「ソナタ形式マニュアル」なんていうものはありませんでしたからね。ハイドン後期の12曲のザロモン・シンフォニーと、ソナタ形式の大伽藍を打ち立てたベートーヴェンにその典型例を見ることはできます。しかしそれらのどの曲をとってもこれが典型的なソナタ形式です、なんて言えるものは実はありません。雛形から外れる意外性を表現することこそが、作曲家の腕の見せどころ、といわんばかりの不意打ち、ウィットや創意工夫に、傑作と呼ばれる作品ほどあふれているのです。


— ソナタ形式について勉強し始めたばかりの頃は、雛形通りでない楽曲ばかりなので、ソナタ形式をどう受け止めたらよいのかわからなかったんです。例えば、第1主題は男性主題、第2主題は女性主題、第1主題と第2主題のコントラストが大切だと言われても、モーツァルトの楽曲にはどちらも女性っぽい主題があったり、さほどコントラストを感じない作品があったりしますよね。目の前の楽曲を雛形に当てはめて考えようと躍起になるのではなく、雛形から外れた意外性や不意打ちに気がつけるようになると、柔軟性溢れるソナタ形式に出会え、ソナタ形式が堅物ではない身近なものに感じられそうです。
ところで、《フィンガルの洞窟》は「物語型ソナタ形式」ということでしたが、ほかにどのような型のソナタ形式があるのですか?


モーツァルトの作品は、先ほども言いましたが、現在の教科書的モデルにぴったり合致するものはありません。各主題を第1主題、第2主題、推移主題、と当てはめていってもモーツァルトの場合、どうしてもしっくり行かないのです。そもそも本人がそのように作曲しているわけではないので当然なのですが。 
彼の作風は多岐に渡るので一概に定義づけることはできませんが、モーツァルトのソナタ形式を『劇場型(登場人物型)』と名づけるのはどうでしょう。
例えばシンフォニー 第35番 K.385〈ハフナー〉の第1楽章。この曲の場合、比較的似通ったキャラクターの登場人物が次から次へと出てくるのですが、彼らの感情・表情はめまぐるしく変化してゆきます。この曲の場合、登場人物は舞台上に複数人が出ずっぱりで、お互いが密に関係をもって物語を紡いでゆきます。動機展開が見事で、冒頭に提示された動機が全曲にわたり影に陽に活躍してゆく様が壮観です。対照的な役を担う第2主題(女性的な主題)は出てこなくて、この曲の場合、登場人物全員が男性かもしれません。とても締まったソナタ形式です。
登場人物の入れ替わり、気分の転換はモーツァルトの場合とても早く4小節・8小節でどんどん変わっていきます。登場人物がたくさんいて、めまぐるしく舞台上が動くオペラ、〈フィガロの結婚〉のようです。
演奏する際は、人物の性格の違いをはっきりと描く必要があり、人物登場の際には明確に新キャラクターを紹介するつもりで区切って演奏することがコツとなります。


W.A.モーツァルト:シンフォニー 第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」
N.アーノンクール/アムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラ


シューベルトは『さすらい型ソナタ形式』?!

ほかの古典派の時代にさまざまに書かれたシンフォニーも、ソナタ形式の雛形に当てはめようとするとなんか未熟な曲になってしまうことが多いのです。魅力的なテーマが続々と絡まりあってゆく、なんていうパターンの作品が多く、その曲にしっくりあった聴き方を探っていくと、これまで傑作なんて思っていなかった曲が輝きだします。花や香草、木の実などをごたごたに混ぜたカラフルな室内香をポプリと言いますよね。あんな感じでいろいろなテーマが関係をもちながら混じり合ってひとつの形をつくる、『ポプリ型ソナタ形式』と名づけたくなる作品もよく見られます。ヨハン・シュターミツなどマンハイム楽派のシンフォニーは、そういう風に聴くと納得できますよ。

シューベルトのソナタ形式は、これもベートーヴェン型雛形に照らし合わせて聴くと冗長で動機展開もあまりなくて、おもしろくない、ということになってしまいます。シューベルトの第1楽章は『さすらい型ソナタ形式』とでも名づけたいのですが。
さすらう主人公がさまざまな風景に出会い、心の中は別れた彼女のことを想いながら一人、希望をもったり絶望したりしながら逡巡している、というような感じのソナタ形式です。ここに波長が合うと、シューベルトのソナタ形式はちっとも長く感じません。

古典派の時代には多様なソナタ形式が存在し、それぞれが時代や地域、また作曲家自身の価値観に基づいて書かれているので、時代が進むにつれ発展・進歩を遂げ完成に導かれるのだ、というような考え方にとらわれないようにしなければなりません。
モーツァルトのシンフォニーの第1番 K.16(8歳の作品)と第41番 K.551のどちらが優れた作品かと問われたら、どのように答えますか?
「そんなの41番に決まっているでしょう!」と大半の方が答えるでしょうね。
第1番のシンフォニーが書かれた1764年当時、ロンドンで鳴っていたシンフォニー、ヨハン・クリスティアン・バッハやカール・フリードリヒ・アーベルのものと比べて、この変ホ長調のシンフォニーはまるで遜色がありません。形式もかなり工夫の凝らされたもので、幼稚とか習作などと断じてしまうには憚られる優れたシンフォニーなのです。
当時のロンドンの価値観に身を浸して(バッハやアーベルの作品の価値に目覚めてから)聴くならば、1番のシンフォニーの41番のシンフォニーとは全く異なる美点は何物にも代えがたいと思われるはずです。

そのようなことを踏まえた上で古典派の作品を聴くと、どの年代の作品も、その創意工夫にあふれた形式が、ドラマティックに語りかけてきます。
第1主題、経過句、属調に転調して、第2主題、小終結部、展開部があり再現され、終結部で再び展開がなされる、というような大まかな流れを意識しながら、各テーマを覚え、そこに含まれる動機がいかに展開されてゆくか、冒険するような感覚で聴いてみてください。

調性はドラマにおける場面のようなものなので、転調がどのようにされてゆくかに注意を払うことは、場面転換の妙を知るために押さえておきたいポイントになります。主調は帰るべき家です。転調を繰り返し家から離れ遠くなってゆくほど不安感や冒険心がかきたてられ、再び家にたどり着いた時の安心感も増すというものです。

また、ソナタ形式における動機労作の醍醐味を知ることも大きな楽しみです。
ベートーヴェンの第5番のシンフォニーで言えば、ダダダダーンの4つの音符を動機と呼び、その動機の積み重ねや展開によって音楽をつくる手法を動機労作といいます。まさにこの曲、冒頭からこの4つの音符が積み重なることによってできていますよね。第2主題に入ってもバスにこの動機がすぐに現れることを聴き逃さないでください。

「ロンド-ソナタ形式」、「複合三部形式」、「変奏曲」など、いかつい名前が多くて、いかにも前知識が求められ、勉強して理解してから聴かなければいけない、というイメージを持たれがちな古典派の音楽ですが、大体の起承転結の形式が決まっていて、水戸黄門のように、毎回ストーリーや登場人物は違うんだけど、ドラマの大体の流れは決まっている。それゆえに安心して冒険に身をまかせることができる、というような音楽が、古典派のシンフォニーやソナタなのです。
形式探求の奥深さの鉱脈は尽きることはありません。知識と経験を積み重ねるほど果てしなくおもしろくなってゆくのもクラシック音楽の醍醐味です。ソナタ形式オタク!は楽しいですよ!



塚田 聡(つかだ さとし)
東京芸術大学卒業後アムステルダムに留学、C.モーリー氏にナチュラルホルンを師事する他、古典フルートを18世紀オーケストラの首席フルーティスト、K.ヒュンテラー氏に師事するなど古典派音楽への造詣を深めた。2001年に再度渡欧、T.v.d.ツヴァルト氏にナチュラルホルンを師事する。音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲルの代表。
・ディスコグラフィ・
ナチュラルホルン〜自然倍音の旋律美と素朴な力強さ
森の響き 〜ドイツ後期ロマン派・ブラームスの魅力〜
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2018年01月15日

知っておきたい!トレンド古典派音楽(5)

ナチュラルホルンを得意とするプロのホルン奏者で、フラウトトラヴェルソを愛奏する古典派音楽の愛好家にして音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲル代表の塚田聡さんに、私の興味が赴くままにインタビュー♪

モーツァルト時代のプログラム・・・シンフォニー各楽章の合間にほかの曲を演奏?!

モーツァルトの書いたディヴェルティメント ニ長調 K.344は全部で6つの楽章を持っています。管弦楽編成のセレナード〈ポストホルン〉ニ長調 K.320は7つの楽章、セレナード〈ハフナー〉ニ長調 K.250にいたっては8つもの楽章から成っています。この2つのセレナードにはさらに入退場用の行進曲まで備えられているのです。
今日、これらの作品が演奏されるのは、主にコンサート会場で、お客さんは椅子に座ってステージ上で奏でられる音楽に耳を澄ませ、全ての楽章を第1楽章から通して聴きます。楽章の合間は拍手をしないで咳払いだけ、というのがエチケットとされていますよね。

ところが、モーツァルトの時代は、第1楽章から終楽章まで順番でセットで聴かなければならないものだ、という考えは希薄でした。ディヴェルティメントやセレナードに限らず、それはシンフォニーでも同じことが言えます。 コンサートのための会場で、オーケストラがステージ上に並ぶようなシチュエーションであっても、シンフォニーの第1楽章から第4楽章まで必ずしも通して演奏されていたわけではありませんでした。今日のオーケストラの演奏会のように、序曲から始まり協奏曲があって、締めくくりに交響曲。というようなスタイルのコンサートは古典派の時代にはなく、シンフォニー(交響曲)は、第1楽章が演奏会の幕開けに利用され(「序曲」的扱い)、次に歌手が登場してコンサートアリアを、ピアノの独奏があるかと思えば、ピアノ協奏曲があり、シンフォニーの中間楽章はどこかに忘れられて、演奏会の最後に締めくくりの音楽として第4楽章のみが演奏される、なんていう、今日で言うところの「ガラ・コンサート」的な催しがむしろ普通でした。


— 全楽章セットで聴かなければならないと思い込んでいました。現在では楽章間の拍手ですらマナー違反ですから。当時の作曲家は、分割して演奏されることもあり得るという前提で作曲していたのですね。とはいえ、ベートーヴェンの各楽章の関連性を見ると、ベートーヴェンはそれを快く思っていなかったのかなと思ったり。

ベートーヴェンが交響曲というジャンルを半ば神格化させてからは、まるで交響曲というものの扱いがそれまでとは異なっていったという経緯があります。彼以降交響曲は、作曲する方もおいそれとは書けなくなったし、聴く方もある程度の覚悟をもって臨まなければならなくなりました。
でも、古典派の時代の交響曲(ベートーヴェン以前)は、概してもっと気楽なものだったのです。ディヴェルティメントと同じような感覚で書かれたものも多くて、両者に厳然たる違いはありませんでした。街のマイスターが、みんなで合奏できるものを、というような感覚で特に構えることなく、いたるところで大量に作曲されていたのです。 そういった古典派時代のシンフォニーを「交響曲」と呼ぶと、どうしてもベートーヴェン以降の殿堂入りした作品たちを想像してしまうので、「シンフォニー」と呼んだ方が実像に近いかなと思っています。

1783年3月にウィーンのブルク劇場で皇帝ヨーゼフ2世同席の元催された、モーツァルトの自主公演のプログラムをここにご紹介しましょう。編成を括弧書きで冒頭に記します。全てモーツァルトの作品で、指揮とピアノもモーツァルトが担当しました。

[オーケストラ] 新ハフナー・シンフォニー
[歌とオーケストラ] オペラ〈イドメネオ〉より「今やあなたが私の父」
[ピアノとオーケストラ] ピアノ協奏曲 ハ長調
[歌とオーケストラ] シェーナ「哀れなわたしよ、ここはどこ・・・ああ、わたしではない」
[オーケストラ] セレナード ニ長調 より第3楽章
[ピアノとオーケストラ] ピアノ協奏曲 ニ長調、ロンド ニ長調
[歌とオーケストラ] オペラ〈ルーチョ・シッラ〉より「私はゆく、私は急ぐ」
[ピアノ独奏] 即興によるフーガ、パイジェッロのオペラの主題による変奏曲、グルックのオペラの主題による変奏曲
[歌とオーケストラ] 「我が憧れの希望よ・・・ああ、汝は知らずいかなる苦しみの」
[オーケストラ] 新ハフナー・シンフォニーの最終楽章

s-ブルク劇場
ブルク劇場

ショパンなどヴィルトゥオーゾによる協奏曲はライブさながら?!

— なんとも贅沢なプログラムですね!それにしても、ハフナー・シンフォニーがプログラム冒頭と末尾に分かれ、その間にほかのオーケストラ曲、セレナードが挟まれているというのは驚きです! ロマン派時代のプログラムを見たことがあるのですが、これに似たプログラムでオーケストラ、ピアノ独奏、ピアノ協奏曲、歌が混ざった、現代では不可能だろうと思うほど贅沢なプログラムだったのですが、ひとつのシンフォニーを細切れに演奏し、なおかつ、他のオーケストラ曲を間に挟むことがあったなんて知りませんでした。


シンフォニーというと、形式が整っていて冒頭の一音から聴き漏らすことなく姿勢を正して聴かなければならない、というようなイメージがあると思いますが、当時は必ずしも全楽章が通して演奏されていたわけではなく、TPOに応じて、そこに適した楽章が選択されて、なんていうことがしばしばあったことが資料から読み取れます。
19世紀に入ると、現在のオーケストラの定期演奏会のような、いわゆる「クラシック・コンサート」が催されるようになってゆきますが、18世紀的な、「ガラ・コンサート」も、ますます発展して各地で催されていて、そこではピアノやヴァイオリンや管楽器のヴィルトゥオーゾがもてはやされ、歌手が歌い、新旧のシンフォニーが細切れに演奏され、といったような、ごたまぜの演奏会が繰り広げられていました。
そういった演奏会では、拍手が楽章間に入るなどは当たり前で、それどころか、ピアノ協奏曲でソリスト(ヴィルトゥオーゾ)が華麗な技を披露した後には、オーケストラの演奏は無視され、やんやと拍手がなったのだそうです。

ショパンのピアノ協奏曲を思い浮かべてみてください。
第1楽章の長いオーケストラによる前奏。音楽が始まったところで、お客さんもまばらにまだ着席していない人がいます。おしゃべりも静まりません。さて、舞台上を見るとソリストも登場していないではありませんか。
ピアノ・ソロがそろそろ始まろうかというころに、白い手袋をはめたピアニストが登場。その手袋をやおら聴衆に投げつけピアノの前に着席すると、劇的なパッセージからヴィルトゥオーゾの演奏が始まります。ピアニストの登場の際にはやんやの拍手、口笛も飛び交ったかもしれませんよ。客席が静まるのは、ピアニストが弾き始めようと手を上げた瞬間になります。

聴衆が注視・注聴する中で奏でられるのは甘いメロディー。ショパンの場合、ちょうど演歌調のメロディー[都はるみの「北の宿から」に似ています(笑)]から始まるのは、これは偶然ではないかもしれません。その甘美なメロディーに聴衆はいきなりメロメロ。演歌歌手のバックバンドに誰も注意を払わないのと同じことが、ショパンのコンチェルトの伴奏オーケストラにも当てはまります。(ちなみにショパンのオーケストラの書法が未熟だという意見を度々聞きますが、当時の楽器で演奏してみれば、意味のない中傷だということが分かります。決して伴奏ゆえにオーケストラを軽視して作曲していたということではありません。)

さてその後、ヴィルトゥオーゾの弾くピアノは徐々に激してゆき、パッセージが細かくなり、彼の技術の見せ場になります。右に左に動く両腕、音楽が盛り上がりトリルで最高潮に達するとオーケストラがそれをフォルティッシモで受け継ぐわけですが、ここで会場はヴィルトゥオーゾに向かって大拍手です。おそらくピアニストはここで立ち上がりもしたでしょう。花束を舞台に投げる人もいたかもしれませんね。
こんなコンサート、今でも日夜催されていますよね。クラシック音楽ではありませんが。
さてしかし、こんな音楽の受容のあり方、芸術音楽の鑑賞態度としては許せない!とムキになった人がいました。

彼はメンデルスゾーンです。
興味をもたれた方はメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番の第1楽章を聴いてみてください。ピアノ・ソロは曲頭からすぐに入るため、手袋を投げる時間はありません。ピアノはクライマックスに向かって盛り上がるのですが、拍手をしようかと手を上げた瞬間にふわーっとピアノパートはオーケストラと一緒に下がっていってしまい拍手をするタイミングを与えません。また各楽章間は休みなくつながるようになっていて、楽章間にも拍手をさせません。かの有名なヴァイオリン協奏曲の第1楽章と第2楽章の間をファゴットがつなぐのも、同じ考えに基づくものと考えていいでしょう。その後第2楽章と第3楽章間も休みなくつながるように作曲されています。
このメンデルスゾーンの活躍していた、おおよそ1830年ごろから、まさに今日のオーケストラの定期演奏会のような形態でのコンサートが催されるようになってきました。その発祥の地のひとつは、メンデルスゾーンが音楽監督を務めていたことがあるライプツィヒ・ゲヴァントハウスの演奏会場です。

あ、それからショパンもパリに出てからは、メンデルスゾーンと同じような感覚(聴衆の拍手は二の次)になっていきましたよね。コンチェルトのような派手な曲を書くのを止め、広い会場での公開演奏会を避けるようになっていったのは、みなさまご存知のとおりです。

s-図1:リストのピアノ・リサイタル。
リストのピアノ・リサイタル。Adolf Brennglas の Berlin, wie es ist (Berlin, 1842) の口絵

— まさにライブですね! 静かに聴きたいという気持ちもありますが、ライブ感覚で奏者とのやりとりを楽しむというのも魅力的です。芸術音楽を聴くというかしこまったものだけでなく、クラシックにもこのようなライヴ感覚のコンサートがあってもいいですよね。

今でも「クラシック・コンサート」の会場は社交の場を兼ねているのですよ。日本では外来のオーケストラのコンサートはチケット代がとても高く、元を取らないととばかりに、クリティカルに一音一音を聴き漏らさないよう、舞台上を睨むように音楽を聴く人が多いでしょう。けれど、ヨーロッパで演奏会場に赴くと、お客さんはくつろぎ楽しむために演奏会に来ているのだ、ということを見せつけられ、ハッとさせられるのです。
アムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラの定期演奏会に一年間通い詰めたことがありますが、演奏会前は会場内のあらゆるところで知人同士での再会を祝したビズ(挨拶のキス)の嵐、休憩時間は全員がロビーに出ておしゃべりを楽しみます。演奏を聴くのはどちらかというと二の次という感じでした。また、オーケストラの団員いわく、「サントリーホールが世界で一番緊張する」とのこと。実際に本場のコンセルトヘボウ(オランダ語でコンサートホールの意味)で聴くよりも、サントリーホールでの演奏の方が数段引き締まった演奏を聴かせてくれます。

ソナタ形式の物語性を楽しんでみる

さてしかし、古典派の音楽は「均整美」を求める音楽でもあります。
古典派の時代に確立されたジャンルに、器楽作品の「ソナタ」と「シンフォニー」があります。
シンフォニーの初期のものはイタリアの序曲に端を発する急-緩-急と短くまとめられた3楽章制のものが聴かれましたが、序破急の呼吸で整えられた形式美を見せてくれるものが少なくありません。ソナタは、緩-急-緩-急のバロック時代の教会ソナタが古典派時代のソナタに受け継がれてゆく中で、各楽章間には調性や主題の関わり、また共通の動機をもつなど、密接な関わりをもった作品が生み出されてゆくようになります。
シンフォニーはその後ウィーンで踊りの楽章(メヌエット)が加えられ、4楽章制になってゆき、徐々に規模が大きくなり、4つの楽章からなるシンフォニーがいよいよ確立されてゆくことになります。

最初と最後の楽章は「ソナタ形式」をとることが多く、中間には、「二部形式(簡易なソナタ形式)」や「変奏曲形式」などの緩徐楽章と、踊りに端を発する3拍子の「メヌエット」が置かれるのが通常のスタイルとなってゆきました。

ソナタ形式は、物語を紡ぐのと同じように「起承転結」のような定型をもった形式です。深く掘り下げると尽きせぬ面白さがありますが、理解する上で決して難しいものではありません。
繰り返し提示されるテーマを男性のいかつい主人公、スノブな女性主人公、彼らを取り巻く脇役たち、のように勝手に置き換えてみるといいかもしれません。ソナタ形式はドラマです。平和だったところに不穏な空気が流れ込んでくると、とらえる人によってはそれを不吉な知らせと感じることもあるでしょう。また人によってはそれを嵐にもまれる舟に例える人もいるかもしれません。
感じることは各人の自由なファンタジーに委ねられています。私はその強要しない想像力が膨らんでゆくところが、ソナタ形式などでつくられた器楽作品のすてきなところだと思っています。

どんな曲でも、そんな物語を紡ぐことができるのですが、初めてそんな自分だけの物語をつくってみたい、なんていう人におすすめしたいのは、メンデルスゾーンの序曲〈フィンガルの洞窟〉です。
この作品のソナタ形式は型通りにつくられていて古典的で短くしまっていて、とてもよくできています。何度も繰り返される冒頭の動機は、ハーモニーによってさまざまに色どられてゆきます。つねに裏で奏でられるさざ波は、実際の海の波やうねりと置き換えてもいいし、心の揺れと感じてもいいでしょう。第2主題のうっとりとする歌謡的な旋律は、提示部では雄弁に歌いますが、再現部では2本のクラリネットにより黄昏的に奏でられます。聴く人は、この作品のタイトルの通りに自然描写をしてもいいし、ある主人公の心の中の葛藤を描いてみてもいいでしょう。最後に寂しくフルート1本で終わるこの曲に、自分だけの物語をつくってみてはいかがでしょう。この色彩豊かな音楽は、聴く者に湧き上がるさまざまなファンタジーを許容してくれるのです。

ソナタ形式を理解するために、まずはその物語性を楽しんでみる。登場人物が加わったり入れ替わったり、表情がころころと変わったり、とドラマを楽しむ感覚で鑑賞してみてはいかがでしょう。ソナタ形式の雛形はありますが、古典派の作曲家はおのおの、そこからの逸脱を楽しみながら曲作りをしています。慣れてくると、「お、ここでそう来るか!」なんて独り言を言いながら楽しめるようになってきます。そうなるとしめたもの。古典派の無限の楽しみが眼前に広がってくることでしょう。



塚田 聡(つかだ さとし)
東京芸術大学卒業後アムステルダムに留学、C.モーリー氏にナチュラルホルンを師事する他、古典フルートを18世紀オーケストラの首席フルーティスト、K.ヒュンテラー氏に師事するなど古典派音楽への造詣を深めた。2001年に再度渡欧、T.v.d.ツヴァルト氏にナチュラルホルンを師事する。音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲルの代表。
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ナチュラルホルン〜自然倍音の旋律美と素朴な力強さ
森の響き 〜ドイツ後期ロマン派・ブラームスの魅力〜
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2017年12月27日

知っておきたい!トレンド古典派音楽(4)

ナチュラルホルンを得意とするプロのホルン奏者で、フラウトトラヴェルソを愛奏する古典派音楽の愛好家にして音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲル代表の塚田聡さんに、私の興味が赴くままにインタビュー♪

モーツァルトはメヌエットがお気に入り!

ディヴェルティメントって作品をよく見ていくと、踊りの要素が強いんですよ。カッサシオンやディヴェルティメントといったような機会音楽の場合、楽章数は通常4つより多くて、歌謡的な楽章、変奏曲などの合間合間にメヌエットが配されています。メヌエットは普通、「主部→トリオ→主部」という三部形式なのですが、ディヴェルティメントのメヌエットは、さらに第2のトリオが加わることもあり、トリオが終わる度にダ・カーポ(曲頭に戻る)しますから、メヌエット楽章の演奏時間は相応に長くなります。このメヌエットをただ座ってじっと聴いていた、というのはちょっと考えられないと思いませんか。

— なるほど!そう伺うと、合間合間にメヌエットがあることや、繰り返しの多さに納得がいきますね!

ここで、ニッセンがモーツァルトの妻コンスタンツェから取材して執筆した文を紹介しましょう。
「彼がビリヤードと同じぐらい熱狂的に愛していたのが、ダンスでした。誰でも参加できた舞踏館での仮装パーティーや、友人の私邸での舞踏会には、欠かさず足を運びました。彼はダンスが得意で、とくにメヌエットがお気に入りでした。踊るだけでなく、パントマイムやバレエのために作曲もしました。仮装パーティーでは、こっけいな仮装をすることが多く、驚くほど巧みにピエロやアルレッキーノに扮していました。」

ディヴェルティメントなどの演奏の際には、モーツァルトもヴァイオリンを弾きながら、バンドマスターよろしく演奏者にアインザッツ(合図)を出しながら、メヌエットのステップを踏んでいたに違いありません。さも「音楽は踊って楽しまなきゃ!」と言わんばかりに。

ディヴェルティメントの踊りはメヌエットだけではありませんよ。ガヴォット風コントルダンス(2拍子)のリズム、歌に溢れる楽章も体を揺らしつつ聴くような、リズムの内在されたノリのいい曲が多いのです。

モーツァルトは、実際に踊られるための舞曲もかなりの数を書いています。晩年に任命された「皇王室宮廷作曲家」という役職は、主に王室のために舞曲を書く仕事がその内容でした。彼は、そのような舞曲を必ずしも機会音楽と蔑みながら書いていたわけではありません。それどころか、モーツァルトも家族も友人もみな踊りを愛好し、謝肉祭期間には種々の夜会に出席し舞踏会を楽しんでいたのですから、踊りながら楽しく作曲していたのではないでしょうか。もちろん軽々と。


— モーツァルトが踊りに夢中になってはしゃいでいるのが目に浮かぶようです。モーツァルトはメヌエットがお気に入りだったのですね!当時のメヌエットは、バロックダンスのメヌエットと同じものなのでしょうか? 私はメヌエットというと、バロック時代に王様の目の前で貴族が緊張しながら踊る風景しか浮かばないのですが、このメヌエットが舞踏会という、もっと気楽なパーティで楽しまれるようになった、ということでしょうか。

メヌエットには貴族や王族の踊る静かで高貴な踊りというイメージがありますよね。このバロック時代のメヌエットのイメージは、18世紀後半のモーツァルトの時代にもあったようです。それゆえに、と言ってもいいでしょう。その後、フランス革命を経ると貴族・王侯文化が滅んでいくのに合わせるようにメヌエットも滅んでいってしまうのです。
またドン・ジョヴァンニの話をしてもいいですか?
今度は有名なシーンとして知られている第1幕の幕切れです。舞台上に配された小オーケストラが「メヌエット」を奏で始めると、踊るのは貴族階級の二人。2/4の「コントルダンス」を踊るのは不良?貴族のドン・ジョヴァンニ、そして最後3/8の速い「ドイツ舞曲」を踊るのが平民の召使と農民です。
そう、モーツァルトが没する頃の社会は貴族階級が傾き、市民がぐんぐん力をつけてきている時代ですよね。つまり「メヌエット」から「ドイツ舞曲」や「レントラー」などの、速い踊りがもてはやされるようになってきた時代だったのです。

— 面白いですね。そんな風にドン・ジョバンニを見たことがなかったので、とても興味深いです。貴族はメヌエットを踊り、平民はドイツ舞曲を踊る。そして、不良貴族はコントルダンス!当時の世相が反映されているのですね。その後廃れていくツンとお澄ましした貴族の踊りだったメヌエットも、モーツァルトが踊っていたパーティーでは、バロック時代のものとはテンポや雰囲気がずいぶん異なっていたのかも・・・。なにしろ、仮装しながら舞踏館や友人の私邸といった、にぎやかな場で踊られていたのですから。舞踏教師に教わって身につける高度なステップや物腰による貴族のたしなみとしてのメヌエットというより、日常で市民が楽しみながら貴族風にお澄ましして踊る、という感じがしますね。

メヌエットからワルツへ

ベートーヴェンのシンフォニーを見てみましょうか。踊りの楽章(第3楽章)は、第1番こそメヌエットと表記されていますが(とても速いけど)、その後はスケルツォという、速度の速い3拍子に替わられていることに気がつきます(第8番は例外)。
モーツァルトのシンフォニーでは最後まで第3楽章は「メヌエット」だったんですよ。モーツァルトの最後のシンフォニーとベートーヴェンの最初のシンフォニーの間にはフランス革命が川のように横たわっているのです。
19世紀に入ってしまいますが、ナポレオン後のヨーロッパをどのように収拾するかヨーロッパ中の王統系代表が1814年から翌年にかけて集まって開かれた「ウィーン会議」のことを揶揄して「会議は踊る、されど進まず」と言うじゃないですか。ここで踊られていたのは、すでにメヌエットではなく、よりスピード感のある「ワルツ」だったんです。ベートーヴェン(1770-1827)やシューベルト(1797-1828)も、意外とたくさん踊りの音楽を書いているんですよ。彼らもこの時代に、「ドイツ舞曲」をより洗練させエレガントなワルツに仕立て上げるのに一役買っていたのです。

ウィーン会議の時、シューベルトは17、8歳ですよね。踊りたいさかりのついたシューベルトの友人たちは、それでも舞踏会に行くほどの余裕はありませんでしたから、シューベルトのピアノに合わせて家庭で踊っていたのです。シューベルトのピアノのために書かれた舞曲のなんと多いことよ。即興で弾かれたワルツを入れたらいったいどれくらいの舞曲を彼は弾いたのでしょう。
シューベルトの仲間たちの集まりが「シューベルティアーデ」と名づけられ、毎晩のように集いが開催されていたことは周知の通りですが、そこでは詩が読まれ、シューベルトにより曲がつけられ、そして場が盛り上がったところで、最後にはお決まりのようにみんなで踊ったのでしょう。もっともシューベルトはモーツァルトと違って、自身が踊るのは得意ではなかったとのこと。彼はずっとピアノを弾いていたのでしょうね。
ヨーゼフ・ランナーが1801年生まれ、ヨハン・シュトラウス祇い1804年生まれ。ワルツはその後洗練され「ウィンナ・ワルツ」となってゆきます。


— モーツァルト時代のメヌエットがウィンナ・ワルツに繋がっていくなんて面白いですね!考えてみると場所も同じ。しかも、時代もそんなに隔たっていないんですね。バロック時代と古典派時代のダンスが全く別物に思えてきて、私にとってはものすごい発見!古典派時代の踊りは日常に息づいた、誰もが気軽に踊れるものだったんですね。

そう、踊りは我々人間の基本でしょう。歌よりも体を動かすことの方が先ですよね。踊るのになんの遠慮が要りましょう。
私は、現在における古典派音楽復権のキーワードのひとつは「踊り」だと思っています。演奏する時も、リズムを際立たせ、ノリよく演奏する。
これは現在一般的にイメージされている、音を立てず、じっと体を動かさずに聴く、といったようなクラシック音楽の受容スタイルとは大きく異なることです。演奏する方についても、現在のクラシック音楽の演奏家は、リズムを軽く強調し過ぎると軽薄になるといって嫌い、重めに表現するのが普通です。
しかし、特に古典派の音楽においては、躍動感やノリを表現することがなにより重要で、その愛想のよい明るい軽やかさが表現されることを第一に考える必要があります。強拍・弱拍のキャラクターを際立たせて、聴く者を踊らせる音楽が古典派音楽の魂といえるのです。


— 古典派音楽の躍動感やノリといったものは、古楽を聴くようになって味わえるようになった気がします。

そうですね。重く均一にヴィブラートをかけるような演奏では古典派のスピリットを表現するのは難しいのです。ピリオドの管楽器は楽器の重量自体がモダン楽器の半分以下です。句読点を置きながらおしゃべりをしながら演奏するように、隣同士の音が平等に平均化しないようになど、さまざまな表現方法で、古楽の演奏家は作品に躍動感を与えることに工夫を凝らしています。

モーツァルトの時代は、舞曲やディヴェルティメント、そしてオペラもそうですよ。それらは言ってみればポピュラー音楽で、上から下まで広い階級の人々の間で歌われ踊られ楽しまれていたもの。そしてかたや、本人にその意識は希薄だったと思うのですが、結果的に芸術音楽と今日みなされている作品も書いていた。モーツァルトにしてもハイドンにしても、特に両者の違いを意識することなく作曲していたのだと思いますが。
複数楽章からなるソナタやシンフォニーなどは後者にあたるでしょう。

確かにこうした器楽作品は、「ソナタ形式」や「複合三部形式」、「ロンド・ソナタ形式」など、建物を築く際の決まりごとのようなものをベースにつくられています。建物の建築法を知らなくても家に住めるのですが、その建物は素敵な芸術作品のようです。建造物自体をまずは鑑賞、そして家の中に入って各部屋を見て回るというような感じで、器楽作品にどのような形式が用いられていたかの概略と、形式の話を次回、分かりやすくお話しできたらと思います。


古典派時代の管楽器。上がバスーン、左からバセット・クラリネット、オーボエ、ホルン、クラリネット。

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塚田 聡(つかだ さとし)
東京芸術大学卒業後アムステルダムに留学、C.モーリー氏にナチュラルホルンを師事する他、古典フルートを18世紀オーケストラの首席フルーティスト、K.ヒュンテラー氏に師事するなど古典派音楽への造詣を深めた。2001年に再度渡欧、T.v.d.ツヴァルト氏にナチュラルホルンを師事する。音楽事務所メヌエット・デア・フリューゲルの代表。
・ディスコグラフィ・
ナチュラルホルン〜自然倍音の旋律美と素朴な力強さ
森の響き 〜ドイツ後期ロマン派・ブラームスの魅力〜
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古典派シンフォニー百花繚乱
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