2014年07月11日

自分の演奏に求めるもの

人にはそれぞれ
「こういう演奏ができるようになりたい」という
願望があるのではと思いますが、
10年前、私のそれは
「内省的な表現」「哲学的な表現」にありました。
そして、5年ほど前から
「絵巻物のような表現」に移り変わっています。

私の演奏は視野が狭い。
ひとつひとつの響きにこだわるあまり、
音楽が流れなくなってしまう上、
全体としてのまとまりがなくなってしまうのです。
それは、その楽曲の本質が見えなくなっているということ。
「内省的」「哲学的」というのは、
演奏する楽曲によって変わってくるもの。
そのことにこだわるよりも、
楽曲の本質を捉えた演奏ができるようなりたいと思うようになりました。

私が参考にした演奏はリヒテルです。
リヒテルの演奏には、
楽曲全体をわしづかみにしたような印象があり、
一体何故そう聴こえるのか?
その秘密が知りたくてたまらなくなりました。
そして、自分には想像力が足りないということに気づきました。
リヒテルの本を読み、
哲学、文学、絵画、歴史にもっと触れるべきと感じたのです。
以来、そういう機会を意識的に自分に課してきました。

それと同時に、リヒテルの演奏の推進力はどこからくるのか?
自分の演奏は何故ぶつ切りに聴こえるのか?
あれこれ思考錯誤しながら練習するようになりました。
リヒテルの師匠であるネイガウスは、
リヒテルの絶妙なテンポ感を褒め称えています。
そういう耳で聴いてみると、なるほどと思います。
場面場面に応じたテンポ感、リズム感。
そこに操作性はなく、必然性を感じるからです。

ふと自分の演奏を振り返ると、
私の演奏は操作性の連続。
聴いている人にそれがバレてしまう。
それが呼吸として演奏に出てしまうのです。
その呼吸は、私の演奏技量や私情に応じた呼吸であり、
音楽の必然性ではありません。
そのせいで音楽がぶつ切れに聴こえてしまう。
楽曲全体をわしづかみにした演奏とは、
真逆の音楽になってしまう。

楽曲の必然性ではない私情をはさんだ呼吸を、
自分の演奏から抽出し、取り除くこと。
ここ数年、そういう楽曲の取り組み方をしてきました。
ただひたすら、
自分が求めている演奏表現ができるようになりたくて。

小倉貴久子さんのシューマン。



小倉さんの演奏は、モーツァルトにしてもシューマンにしても、
ベートーヴェンにしても、常に音楽と一体化していると感じます。
そこに操作性はなく、必然性しか感じません。
だからこそ、その楽曲の本質が浮き彫りになる。
落ち着くところは落ち着き、
推進力のあるところは推進力を持って、一切の躊躇がない。
躊躇というのは私情ですね。
小倉さんの演奏には私情が絡んでこない。

その上、ネイガウスがリヒテルを褒め称えた
絶妙なテンポ感とリズム感を、私は小倉さんの演奏からも感じます。
必然性によるテンポ感、必然性によるリズム感。
だからこそ本質が浮き彫りになる。

今日このCDを聴き、
改めて私が求めている音楽を再認識させられた気がしています。
操作性を感じさせない音楽。
本質を浮き彫りにする演奏。
音楽と一体化するということ。
いつかそんな演奏ができるようになりたい。


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emksan at 16:48│TrackBack(0) ピアノ/練習&勉強 

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