2013年11月29日

発達障碍児とピアノ教室

ホームページにひまわりの丘を設けたのは何年前かな・・・。
発達障碍の生徒さんたちに出会って、
数年経った頃だったのではないかと思います。
発達障碍児にピアノを教えているけれど、
情報交換し合える場がなくて困っている、
そんな先生方と繋がることができたらと開設したページでした。

このページを開設してから、
ちょこちょこと「ピアノの先生を探しています」
という相談が寄せられるようになりました。
発達障碍児の親御さんたちが、
ピアノ教室を探すのにとても苦労していたのです。

私が発達障碍の生徒さんたちに出会ったばかりの頃、
特別養護学校や学級でピアノを習っている子は、
とても少なかったように記憶しています。

ところが、1,2年ほど前、
特別支援学級に通う中学生の女の子が、
学校行事でピアノを弾くことになったとき、
他にもヴァイオリンやピアノを弾く子が何人もいる、
という話を耳にしたのです。

このように、都市部では発達障碍児の活動の場が
広がっていると感じています。
発達障碍者だけで集まり、
定型発達者とは別な場所で生きてください、
という時代ではなくなっているということです。

自閉症スペクトラムの方々は、
先日ブログに投稿したようにスペクトラムを感じたい
障碍の境目がはっきりしていません。
そのため、知的障碍を伴っていない自閉症スペクトラムの子、
診断名がつかないグレーゾーンの子などは、
通常学級に通うことが多いんですよね。

障碍のあるなしで、
生きる世界を切り離す時代は終わりつつあります。
私が子どもの頃、特別支援学級は学校の片隅にあり、
どこにあるかわからない遠くにある教室でした。
子どもの私にとって、
発達障碍は身近なものではなく、
存在そのものすら意識したことがなかったのです。

しかし、今は違います。
学校によっては日当たりのよい、
他のお教室と交流しやすい場所に教室が構えられています。
定型発達児との交流の場も、
意識的に設けられるようになってきました。

障碍を隠そうという意識も低下してきて、
子どもがこれからの人生を生き生きと謳歌するために、
親御さんたちが勇気を持って、
自分たち家族の活動の場、
居場所を求めるようになってきました。


あきらめないで! ピアノ・レッスン ~発達障害児に学ぶ効果的レッスンアプローチ~
中嶋 恵美子
ヤマハミュージックメディア
2011-02-16



この本を出版してから、
相談の件数がさらに増えました。
ピアノ指導者からの相談も増えましたが、
「ピアノの先生を探している」という相談も、
いまだに多く寄せられます。

楽器を習う子が増えてきているとはいえ、
まだまだ受け入れ体制は整っていないのだと、
痛感させられます。

人口の多い都市部は、
声をかければ意外とすぐに先生が見つかるんです。
ところが、人口の少ない地域では、
なかなか見つかりません。

9月に三重県でピアノの先生を探している、
という相談が寄せられました。
mixi「発達障害とピアノ」というコミュニティや、
(このブログ右サイドバーにリンク)
FB、ツィッターで呼びかけたり、
三重県に知り合いがいる先生に声をかけてもらい、
さらにその先生が知り合いの先生に声をかけるというように、
伝手の伝手を頼って探しても、なかなか見つかりません。

この方の先生は、未だに見つかっていません。
定型発達児で、
ここまでピアノ教室を探すのに苦労することがあるでしょうか?
何故、ここまで苦労しなければならないのか。
何故、発達障碍児というだけで断られてしまうのか。

障碍があるというだけで、
体験レッスンを受け、
相性の良い先生を探すという、
定型発達児にとっては当たり前の機会を、
奪われてしまうという現実。

ピアノ指導者は生真面目な方が多く、
発達障碍に対して確固たる知識を持っていないと、
レッスンはできないと思われるようです。
構え過ぎてしまうんですよね。
生徒さんを受け入れない原因は、
障碍に対する差別ではなく、
その生真面目さにあるのです。

本を出版し、セミナーを開くことで、
少しでもその生真面目さを打破することができたらと、
いろんな先生方に出会ってきました。
ネット上では、
発達障碍児のレッスンについてブログやコメントで語ることを、
タブーとしない雰囲気ができてきました。

出版したばかりの頃は、
タブーの雰囲気が漂っていたんですよね。
ちょっとした一言が、
差別に繋がってしまうんじゃないか、
誰かから批判されるんじゃないかと、
言葉の使い方そのものに
恐怖を感じる人が多かったのではと想像しています。

でも、本当はそういう”構え”って必要ないんですよね。
話題にすることをタブーにする方が、
障碍のある人たちにとっては、
ずっとずっと生きにくい社会と思います。
タブー視されるということは、
社会にとって特別な、違和感のある存在ということですから。

本を出版したとき、10年後の目標を定めました。
発達障碍児がピアノ教室を探すのに困らない社会の実現。
発達障碍児が、社会にとって当たり前の存在になること。
定型発達児がピアノ教室に通うのが当たり前のように、
発達障碍の子がピアノ教室に通うのは当たり前と、
誰もが認知するようになること。

定型発達の子に理解力の高い子や拙い子がいるように、
発達障碍の子にも理解力の高い子や拙い子がいる。

定型発達の子に情緒不安定な子や伸びやかな子がいるように、
発達障碍の子にも情緒不安定な子や伸びやかな子がいる。

定型発達の子に音感の良い子や拙い子がいるように、
発達障碍の子にも音感良い子や拙い子がいる。

定型発達の子に体の器用な子や不器用な子がいるように、
発達障碍の子にも体の器用な子や不器用な子がいる。

定型発達の子の個性に応じてレッスンするのと同じように、
発達障碍児の個性に応じてレッスンするということ。

これらの一体どこに境目があるのでしょう?
障碍のあるなしで生きる世界を切り離すということに、
私は違和感を覚えています。

障碍のある子にピアノを教えているから、
いい人だとか、偉い人だとか、忍耐強い人だとか・・・。
これらの感想は全て、
障碍があるということを特別視しているからこそ
生まれるものですよね。

発達障碍者へのレッスン風景動画をアップして、
「がんばって!」などと声をかけられると、
”障碍があり大変な思いをしながらピアノを弾いている”と、
すごい特別視をされている感じがして、
とても悲しくなります。

生徒さんはピアノを弾くことを心から楽しんでおり、
私もそんな生徒さんと音楽を共有する時間を堪能しているわけで、
それを、障碍があるのに偉いねとか、
大変なのにがんばっているねとか、
なんだか明後日な方向から感想をいただくと、
とてもとても胸が痛くなるのです。
楽しんじゃいけないの?と。

障碍のある生徒さんと音楽を共有し、
定型発達の子となんら変わりなく、
レッスンする楽しみを味わうということは、
そんなに特別なことなのでしょうか?

以前ある地域にセミナーへ伺った際、
そこの楽器店の方がすごく気の毒そうな表情で、
「あんなに不器用に正直それほど上手じゃない演奏で、
あの子たちは楽しいのでしょうか?
大変なのに頑張っているんですね。」
という感想をいただいたことがありました。

私にとってこのような感想を頂くことは、
生まれて初めてのことだったので、
衝撃を受けました。
そして、とても深く傷つきました。

こういう発想、こういう視点もあるのだと、
そのとき初めて知りました。
コンクールで演奏するような、
仕上がりのよい器用な演奏ができていなければ、
ピアノを習っている意味、楽しさはない。
この方とお話していて、
そういう視点が根底にあるのだと感じました。

音楽って何だろう?
心を打つ演奏ってなんだろう?
以前このことをテーマに記事に書いたことがあります。
http://musestown.livedoor.biz/archives/52083422.html

音楽の本質を聴かずに、
見た目で演奏を捉える人もいるのだということを、
私はこのときの会話で初めて知りました。
音楽に対する価値観。心が震えるという価値観。
私とは全く違う価値観で音楽と向き合う人もいるんだと、
このとき初めて知ったのです。

障碍のあるなしに関わらず、
ピアノを習う楽しさには、

・やりがい
・音楽を味わう
・表現する

という3つの要素があるのではと思います。
このどれが欠けても楽しくないのではないでしょうか。
障碍のある子がピアノを習って楽しいのだろうか?とか、
大変なのに頑張っている、という感想を抱く人は、
”やりがい”の部分を捉えてそのような感想を持つのでしょう。

”やりがい”ってなんでしょう?
”やりがい”には共通した物差しなどないと、
私は思うんです。

自分の持てる能力を駆使するということ。
それは能力以上のことをするという意味ではなく、
今持っている能力を最大限に生かし、
それを使うことで快感を得るということ。
私はピアノを習う上での”やりがい”をそう捉えています。

そこには様々なスタンスがあります。
ピアノと向き合う様々なスタンスです。
このスタンスを無視しても”やりがい”は生まれません。
能力を駆使する”量”が、
自分のスタンスとあまりにかけ離れていた場合、
それは苦しさか、つまらなさしか生まないと思うからです。

理解力が高く、身体能力が高い子でも、
コンクールや音大を目指すような子の”量”と、
趣味で習っている子の”量”は異なります。
持てる能力は同じでも、環境や価値観が違うんですよね。
能力に応じた”質”と、環境や価値観に応じた”量”。
それが合致したとき”やりがい”という、
快感が生まれるのではと思います。

これは障碍のあるなし関係ないんですよね。
発達障碍があるからやりがいは感じないだろう、
大変なだけだろう、楽しくないだろう、
というのはあまりにも一面的と思うのです。

障碍があっても”やりがい”はあります。
その子の持てる能力を最大限に駆使するレッスンがあります。
そして、そのことで快感を得る生徒さんがいます。

このブログ右サイドバーに、
レッスン風景動画へのリンクを貼っていますが、
この軽度知的障碍のなっちゃんは社会人です。
会社では、自分の能力以下の仕事をすることが多いようです。
シール貼りだけを一日中するなど、単調な仕事が多いのです。

そこには”やりがい”がありません。
張り合いがないんですよね。
社会人になってすぐにお母さんが
「ピアノを習っていてよかった」と伝えてくれました。
ピアノには挑戦するという”やりがい”があるからです。

障碍があるからと”やりがい”を無視したレッスンをしても、
楽しいレッスンにはならないでしょう。
これは障碍のない生徒さんでも同じことですよね。
ピアノへ向かうスタンスが本格的なものではなく、
趣味の領域だし、理解力も拙く体も不器用だからと、
”やりがい”を無視した表面的に楽しいレッスンをしたところで、
その子の人生にピアノは定着しないでしょう。

ピアノ指導者が歩んできたピアノとの道のりは、
楽しい一辺倒のものではありません。
自分の能力と向き合うという切磋琢磨もそこにはあるものです。
そこに”やりがい”を見出した人もいれば、
苦しいだけだった人もいるでしょう。
ちなみに、私は後者でした。(^_^;)
ピアノの練習に”やりがい”を見いだせるようになったのは、
30歳を越えてからのことです。

このような平坦ではない道のりを歩んできたピアノ指導者は、
生徒さんの”やりがい”に、
自分の物差しを使ってしまいがちなのかもしれません。
自分がピアノに向き合うスタンスと同じものを求め、
自分が持っている能力と同じものを生徒さんに見ようとしてしまう。

自分の物差しと異なる物差しを持っている人を見ると、
「それで楽しいのかな?」と疑問に思う。
発達障碍児に対する偏見は、
こういった一辺倒な物差しを持つことで、
生まれることなのかもしれません。

社会は様々な個性が錯綜する、
混然一体となったものです。
人口の多い都市部はなおさら。
都市部に発達障碍児を受け入れるお教室が多いのは、
そのせいかもしれません。
自分の物差しを相手に押し付けるだけでは、
生きていけないですから。

しかし、人口の少ない社会では、
まだまだ発達障碍に対する間口が狭いと感じます。
本を出版したときに定めた10年後の夢。
人口の多い都市部では叶いそうな気もしますが、
全国的に・・・という夢は険しい道のりなのかもしれません。

それでも発達障碍の方々が、
普通に受け止められる社会になったならと思うのです。


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emksan at 13:48│TrackBack(0) 障碍&幼児 

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