2013年11月22日

発達が遅かった私

ネットでセミナーで幼児の理解力を知るために、
図形の方位知覚と非可逆的思考について、
ご紹介しましたが、
子どもを相手に指導するって、
子どもの頃の自分を思い出すってことなんだなぁ、
なんて思ったり。

子どもの頃の私は、
かなり発達の遅い子だったのではと思います。
図形の方位知覚にしても、非可逆的思考にしても。
方位知覚は8歳頃まで、
非可逆的思考は7歳頃まで現れますが、
私はこれらには人それぞれの
「余韻」というものがあると思うんです。

余韻の短い理解力の高い人もいれば、
余韻が長く続く、発達の遅い人もいると。
私は後者だったと感じています。

ひらがなやカタカナを覚えるのに、
とても苦労したことを覚えています。
この線をどっちにカーブさせればよかったんだっけ?
どこから書き始めればよかったんだっけ?
何度練習しても、毎回悩んでしまう。

これは漢字についても同じことでした。
なかなか漢字が覚えられない。
何度書いても何度書いても、
迷うところは一緒。
同じところで迷ってしまう。

ピアノを教えるようになって、
漢字を1度見ただけで覚える子がいるということを知りました。
私は何度も何度も書かなきゃ覚えなかったのに、
世の中には1度見ただけで覚えちゃう人もいるの?!
びっくりしましたよ〜。
羨ましくも思いましたが、
私にはない能力なのだから仕方ありません。(^_^;)

算数にしても同じこと。
足し算が好き。引き算は嫌い。
引き算は私にとって混乱するものでしかありませんでした。
今思うと、非可逆的な思考から
脱し切れていなかったからなのですね〜。

足し算は可逆的に考えなくても、
加算していけばいいだけですから理解できます。
でも、引き算は可逆的な数字の概念を理解できていなければ、
わけがわからなくて混乱するだけ。

引き算や割り算が、ススッとできるようになったのって、
一体何年生くらいの頃だったんだろう?
本来非可逆的な思考から卒業できる7歳という年齢は、
ゆうに通り過ぎていた気がします・・・。(笑)

とにかく、知覚方位にしても非可逆的思考にしても、
私の余韻は長かった。相当長かった。
だから小学6年間の授業は、
わからないことだらけで、
授業についていけてると思った記憶がありません。

いつも先生に当てられませんように!と
頭を垂れて、目立たないように目立たないように。
間違えたり、わからなかったりする自分が恥ずかしくて、
隠れたくて、いつも不安でした。

知覚方位や非可逆的思考が未発達な子どもにとって、
学校の授業はわからないことだらけです。
こういった思考は、経験するしかないことで、
経験の場を与えられなければ、
なかなか余韻から抜け出すことができないんですよね。

私は親から「勉強しなさい!」と言われるだけで、
付き添って勉強してもらった記憶がありません。
認知力が未発達なせいで、
学校の授業だけでは理解が及ばず、
宿題を出されてもわけがわからないだけで、
一人で答えることはできず、
どう手をつけたらよいのかすらわからない。

とにもかくにも人より遅れた発達で、
出来の悪かった私は、
宿題を解くことすらできなかったのです。
発達を促してくれる存在がおらず、
この状態が続くわけですから、
そりゃ、余韻も長引くわけで・・・・。

何年生の頃だったか、公文をやるようになりました。
大嫌いだった公文。
1日でも宿題を怠ると、
1日の宿題量が倍になるという恐ろしい公文。
大嫌いでしたが、
もしかしたらこのお陰で、
未発達な認知力の余韻から
脱出することができたのかもしれない、とも思います。

生徒さんの中には、
お母さんの付き添いがなくても、
学校の宿題を一人でこなせる子もいれば、
一人ではわけがわからず、
まったく手がつかないという子もいます。

もちろん、私は後者だったわけで、
前者の子を見ていると、
羨ましいなぁ〜と思います。
お母さんもとっても育てやすそう。
ってことは、私は育てにくい子だったのか?!(^_^;)

私が自分のことを
「結構私って理解力あるんじゃん!」と
思えるようになったのは、
大学に入ってからのことでした。
高校を中退したり、家出したり、大検を受けたりで、
かなり遠回りした思春期だったので、
同じ学年の子は3つ年下だったから、
なおさらそう感じたのでしょうか?(笑)

それまでは「わからない!」と、
わからない自分がとても恥ずかしかったですし、
「なんでわからないの?」と
わからないことをまるで罪のように
とがめられることも怖くて、
いつもビクビクしていたように思います。

問題を解くということは、答えがあるということ。
赤ペンで×をつけられる恐怖。
わからないから間違えるのですが、
わからないことを否定される恐怖。
わからないことは悪いこと。

でもね、どんなに頭を働かせたって、
どんなに考えたって、わからないんだもの。
理解力が拙いということに、何故罪があるのか?
何故そんなに後ろめたさを感じなければならないのか?
みんなはスイスイ理解していくのに、
私だけわかっていないという、取り残された感覚。

それが、大学に入って消えたんです。
私が入った大学は答えが一つじゃなかったので、
私向きだったんですね。(笑)
レポートがとっても得意でした。
レポートで単位がとれちゃうなんて、
こんなにラクチンで本当にいいの?!という感じ。

私は思索することが大好きですから、
それをそのままレポートにすればいいわけで、
楽しい上に、単位もとれちゃう。
大学ってラクチン!と、一気に軽やかな気分になりました。
記憶力の悪い私にとって、
答えが一つじゃないってありがたかったんですよね。(^_^;)

私の生徒さんにも、
文字を書くのが苦手だったり、
理解力が拙かったりする子がいます。
でもね、こういう子って他の面では「おっ!」と思うような、
賢い面を見せてくれたりするんですよね。

ああ、この子はきっと私と同じタイプなんだなぁ、
きっと大学に入ったらレポートが得意になるタイプだなぁ、
なんて思ったりします。
それまでの小中高という道のりは、
果てしないほど長い長い道のりで、
私と同じように苦労するのだろうけれど・・・。

発達の余韻は本当に人それぞれ。
ある程度の年齢になると、
それは「未発達」とは呼ばず、
得意不得意という言葉に置き換わります。
私は未だに不得意なことが、とっても多いんですよ。

特に理系に関することは、
理解できないことのレベルが、かなぁり低い。
理系の主人に言わせると、
「恵美子はこんなこともわからなかったんだね。」と。(^_^;)

お陰で、税理士さんにお願いするのを、
主人が許してくれたほど。
それまでは「自分でやればいいのに」の一点張りだったのですが、
とあるゲームで、
主人がかなぁり噛み砕いてわかりやすく説明してくれているのに、
私にはまったく理解することができないのを見て、
こういう人間も世の中にはいるのだと、
ようやく理解できたようです。

主人が生きてきた中で、
私ほど数字に疎い人間はこれまでいなかったらしい。(笑)

数字に疎い人間にとって、
今の社会ほど生きにくい社会はないだろうと感じます。
今の社会は数字で成り立っている!と思うほどで。
社会との繋がりが数字なんですよね。
行政との繋がりが数字というか。
あんな書面を見ても、私にはとても理解することができません。

数字に疎い人間は、
一体この社会にどうやって溶け込んだらよいのだろう?
家を建てたときもそう思いましたし、
税金や年金のことにしても、いつもそう思います。
私がこうして社会に所属していられるのは、
私の代わりに主人や税理士さんが、
私にできないことをやってくれているからであって、
主人がいなくなったら、私はどうすればいいのか?

数字に強い人の方が、
多くのことを享受できる。
現代社会は、そういうシステムですね。
こういうことができれば、こういうことを知っていれば、
いろんな控除を受けられるとか、得をするとか。

でも、そんなシステムがあっても、
数字に疎い人間にとっては、
宝の持ち腐れなわけで・・・。
能力がないのだから、無理なものは無理なんですよねぇ。(^_^;)
「理解しようとしないからだ」なんて言われたって、
理解しようと努めても理解できない能力の低い人間が、
この世の中にはいるのですよ・・・。

っと、話が逸れてしまいましたが、
人間得意不得意、人それぞれですよね。
私は数字には疎いけれど、
思索することでは「結構いい線いってる?」なんて思ったり。

子どもの頃、あれだけ物わかりの悪い子どもだったからこそ、
「わかるわかる!」と
生徒さんの気持ちを理解できるわけで、
こうなってくると短所も長所ですよね。

世の中のお母さんや先生方には、
理解力の拙い子に対して、
「なんでわからないの?」
「なんであんなに教えたのに間違えるの?」と、
責めないであげて欲しいなぁと、心から願っています。

一番辛くて、一番苦しくて、一番恥ずかしくて、
一番不安で不安でたまらないのは、本人なのですから。


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emksan at 16:25│TrackBack(0) 障碍&幼児 

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