2013年10月08日

対-人ではない分人の比率

先日”「個人」から「分人」へ”という
ブログ記事を書きましたが、
人の分人に限らないというのが、
平野啓一郎氏の「分人」の魅力と、
私は感じています。
音楽、文学、美術、あらゆるものと対面する自分(分人)。
自分の中に生まれる分人は、
人との分人だけではないのです。

このとき私は、自分の分人の比率を思い浮かべます。
私の人生の足場となる分人は、
主人や義父、生徒さんたちが主ですが、
その中には音楽や文学、
美術との分人も含まれるのだなぁと。

対-人との分人というのは、
抱えられる人数が人によって異なるのではと感じます。
私はそれほど多くを抱えられるタイプではありません。
分人が増えれば増えるほど、
足場となる分人が持てる比率は、
必然的に低くなってしまうわけですから。

私の場合、足場となる分人の比率を
一般より高く保っていないと、
精神安定が図れないのだろうと思います。

例えば、今、同業者の間では、
ピアノ指導者同士の繋がりや、
セミナーに通うことが流行っていますが、
私がそれだけの分人を抱え込んでしまったら、
精神安定は一気に崩れてしまうだろうと思います。
私に向いた比率というものがあるんですよね。

これは対-人との分人に限らず、
社会的なニュースとの分人においても同じです。
この社会に身を置いている以上、
自身の人生を守るという意味合いでも、
政治の動向は知っておくべき事柄でしょうし、
そのことについて意見を持つことは大切と思います。

しかし、だからといってこの分人の比率が高くなりすぎると、
これまた私の精神安定は崩れてしまうんですよね。
最近テレビを見る時間が激減しています。
BGMにクラシックを聴くようになりました。
以前は集中して聴きたいと思っていたので、
BGMはあえて避けていたのですが、
こうしてBGMに身を置くと気持ちがいいんですよね。

その上、平野啓一郎氏にはまりまくったので、
空いた時間を読書に使うことが増えました。
テレビを見ながら本を読むなどという「ながら」は、
不器用な私にはできないので、
読書だけに没頭することになってしまいます。

足場となる主人、義父、生徒さんたちとの分人。
それに加えて、これまた足場となる音楽、文学、美術との分人。
こうしてみると私の足場の比率って、
全体の70%以上を占めているのではとすら思ってしまいます。

人によっては、
人生の足場となる分人の比率は、
30%程度でよいという人もいるかもしれませんね。
ところが、私の場合そうじゃない。
足場の比率は人それぞれで、
自分に向いた適度な足場の比率を知ることは、
大切なことなんじゃなかろうかと思ったり。

もちろんこれら足場に含まれる分人同士にも比率があり、
時期によっては足場として役割を、
一時休ませる分人も、私の中にはあります。

常に足場となっているのは主人と義父との分人でしょう。
それ以外の足場に含まれる分人は、
その時々に応じてという、柔軟性を持たせた分人です。
そして今の私は、
文学との分人が肥大化している、といったところでしょうか。

ところで、先日のブログ記事で、
分人同士の滲み合いについて書きましたが、
私にとって音楽、文学、美術との分人は、
いずれも滲みあったものとして意識的に形成しているものです。
音楽との分人、文学との分人、美術との分人と、
3つの分人に分けることなどできるのだろうか?というほど、
現在では滲み合い影響し合い、
ほとんど1つの分人になっているのではと思うほどです。

この5,6年の私の悩みは、
これらの分人が滲み合わないことにありました。
文学を通して音楽を感じる、
音楽を通して文学を感じる、
美術を通して音楽を感じる、
音楽を通して美術を感じる、
それを体感することのできない自分に苛立ち、
融合させたい、体感したいと熱望していたのです。

ようやく融合し始めたこれらの分人は、
対-人との分人とも密接な関係を持っています。
特に生徒さんや同業者の方々との分人においては、
必要不可欠な滲み合いです。

私の対-人との分人は、
家族以外では仕事関係がほとんどです。
そういう比率を自分で選んでいるとも感じます。
仕事が自分の居場所だという思いが強いからでしょう。
仕事関係の方々との分人は、
対-人ではない分人との滲み合い次第で、
展開していくと感じています。
そうしていきたいと思う私もいるのだと思います。

先程、ピアノ指導者の世界では、
対-人との分人比率を高めることが
流行っていると書きました。
しかし私は、対-人との分人だけを増やしていくことに、
とても危険を感じています。

もちろん私の対-人の許容量が、
一般より低いということもありますが、
分人の比率のほとんどが対-人というのは、
誰でも疲れてしまうものなのではないか?とも思うのです。

対-人との分人と、
それ以外との分人の比率をどう持ってくるのかは、
人それぞれと思うのですが、
自分に向いている比率を見極め、
自分に向いた比率で生きていくということは、
精神安定にとって大切なことなんじゃないかな、と。

それと同時に、
音楽に身を置くという仕事は、
対-人だけでは成り立たないだろうとも思うんですよね。
特に、教えるという仕事においては。
教える事柄との分人が自分の中になければ、
教えることなどできないのですから。
人に教えるというのは、
教える事柄との分人と、
教える人との分人の滲み合いなのではないでしょうか。

この2つの分人の比率をどう持たせるかは、
人それぞれと思いますが、
私は常に、この2つの分人同士の比率を思慮しながら、
これらの分人を育んでいきたいと思うのです。

全体における対-人との分人の比率、
全体におけるそれ以外との分人の比率、
対-人との分人とそれ以外との分人の比率、
これらはその時々の自分に応じて変化するはずで、
その時々の自分に応じた比率でないとき、
精神不安定に陥りやすくなるような気がしています。

全体の比率が、
自分に向いたものではなくなり、
精神不安定に陥ってしまうと、
どの分人も上手くいかなくなってしまいます。
主人との分人も、義父との分人も、
生徒さんとの分人も、
人生の足場としている分人に、
悪影響を及ぼしてしまうんですよね。

どの比率が今の自分に応じているのかを
常に模索しながら比率の調整を図っていくことが、
揺らがない自分へと導くコツなのかもしれません。


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emksan at 13:45│TrackBack(0) 読書 | ピアノ/練習&勉強

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