2013年10月06日

「個人」から「分人」へ

NHKの対談番組で平野啓一郎氏に興味を抱き、
出版順に読み進めてきましたが、
とうとう『空白を満たしなさい』を読み終えました。
この作品を読み終えたとき、
「分人」という考えに共鳴する反面、
釈然としないものも感じました。


私は幼児教育学を学んできているので、
その影響が強いのかもしれません。
根本的なところが抜けているような気がして、
共感はしたものの、全面的な共感には至りませんでした。
そこで、この考えをもっと知ろうと
『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読むことにしました。


私が釈然としなかった理由は、
DNAがあるじゃないか、ということです。
私たちにとって最初の分人は母親となりますが、
何者にも影響を受けていないまっさらな状態、
分人が生まれる前の状態はどうなるの?と。
それは私という人間の本質に関わるものなのでは?
と思ったのです。

この点を否定することは、
とても危険なことのように感じていました。
しかし、この本を読んだところ、
平野氏はこの点を否定しておらず、
この存在を含めた上で分人を考えていました。

そして、もう一つ。
それぞれの分人は滲みあう、というのが私の考えでした。
『ドーン』でこのことについて触れられてはいたのですが、
よく理解できなかったんですよね。
そのため、分人同士を完全に分けて考えることに、
私は危険を感じたのでした。
本当にそれでよいのだろうかと。

ドーン (講談社文庫)
平野 啓一郎
講談社
2012-05-15



平野氏は”分人多元主義”という言葉で、
分人同士の滲み合いを表現しています。
平野氏は「混ざり合っているのがよいのか、
分かれている方がよいのか」と述べていましたが、
私は、これは選べないことだろうと思いました。

分人が生まれるというのは、ひとつの経験と思います。
これらの経験は望むと望まざるとにかかわらず、
自動的に自分の中に蓄積され、
新たに生まれる分人との関係に影響を及ぼすはずで、
分かれている方がよいのかなどと、
選択することなど可能なのだろうか?と思うのです。

「個性とは、常に新しい環境、
新しい対人関係の中で変化していくものだ」

この個性を分人が生まれる前のまっさらなものとするなら、
私はそれが自分の本質なのだろうと思います。
そして、その本質は確かに変化するもので、
私たちはこの本質を素材として、
様々な分人形成を展開させていくのだろうと思うのです。

私は、平野氏の考える分人同士の滲み合いについて、
まだ釈然としないものを感じています。
分人同士の滲み合いの中には、
素材である変化し続ける個性と、
それぞれの分人同士の関係が含まれるはずと思うからです。

誰かと出会い、
誰かの分人が形成されるたびに個性が影響を受ける。
その影響を受け、変化した個性で、
新たな分人が形成される。
もしくは、それまでの分人との関係を育んでいく。
その繰り返しなのではと。

私が分人同士の滲み合いは選べないと思うのは、
そういう意味においてです。
この点について、
似たようなことが語られているとは感じるものの、
平野氏が自分の本質ともいえる変化する個性を、
それぞれの分人において、
どういう位置関係に置いているのかが、
私にはわからなかったんですよね。


分人
私が考える分人像は上図のような感じです。
人との出会いによって素材は変化し、
その変化した素材によって、
それまでの分人も変化します。
そして、新たな分人は、
その時点で変化している素材によって、
形成されるのだろうと。

ところで、平野氏は分人の構成比率について、
興味深いことを述べています。
構成比率が変われば個性も変わると。
この構成比率をどうするかは自分次第です。
(子どもにおいては難しいことと思います。
子どもは環境を選べないので。)


この点について、私には実感があります。
10年ほど前のこと、
私はネット上の交流に夢中になりました。
しかしある時、ネット上にありがちな
人間関係のいざこざに巻き込まれてしまったのです。

私はこういうことが起きると、
鬱に襲われ、胃潰瘍になります。
不安定な精神状態から抜け出したくても、
なかなか抜け出せなくて、
始終苦しい思いに捉われてしまうのです。

このときの私は、
ネット上の分人に高い比率を与えていました。
毎日のようにネットを徘徊し、
掲示板やチャットでやりとりしているうちに、
ネット上の分人の比率が高くなっていたのです。

苦しくてネットから目を背けたとき、
「自分にとって本当に大切な人は誰?」
という疑問がふと浮かんできました。
果たしてネット上の人間関係は、
私の人生においてそんなに大切なものなのだろうか?と。

私の人生と関わりの深い、
本当に大切な人は誰?
私が本当に理解してもらいたいと思う、
心地よい関係でいたいと思う人は誰?

そこから見えてきたのは、
主人と生徒さんたちでした。
私にはこんなにも大切な、
かけがえのない人たちがいる。
万人に自分を理解してもらおうだなんて無理な話。
本当に理解してもらいたい、
心地よい関係を築き上げていきたいと思う人たちとの関係を、
大切にしていけばいいじゃないか。
そう思ったら、心の重石がスッと取れた気がしました。

このとき、私の中にある分人の比率が変化したのです。
ネット上の人間関係、たまにオフ会で会う程度の、
問題が生じた人間関係は、
私の人生の足場になるほどの重要な人間関係ではなく、
高い比率にしておく分人ではないと、
気付いたということです。
高い比率にすべき分人は、
もっと自分のそばにいるということに気付いたのです。

このとき以来、
人間関係で胃潰瘍になることがなくなりました。
もちろん眠れなくなりますし、
そのことに捉われがちにはなりますが、
自分の足場となる分人との関係がしっかりしていることで、
胃潰瘍になるほどの悩みに
襲われることはなくなったんですよね。

「好きな分人が一つずつ増えていくなら、
私たちは、その分、自分に肯定的になれる」

私が私の人生における足場を築くことができたのは、
主人と出会ったからでした。

「愛とは、相手の存在が、
あなた自身を愛させてくれることだ。
そして同時に、あなたの存在によって、
相手が自らを愛せるようになることだ」

愛情は心地よいものなのだと教えてくれたのは、主人でした。
愛情をこんなにも心地良く感じるだなんて、私にとっては驚きでした。
それまでの私にとり、愛情は自分をがんじがらめにする、
苦しいものでしかなかったからです。
そして私は、愛情を受け入れることのできない自分を
「私は冷たい人間なのだ」と責めていました。

こんなにも豊かな愛情と環境に恵まれているのに、
いつも寂しくて孤独を感じていました。
布団の中に入ると胸がキーンと痛くなります。
体に電気が走るとはよくいったもので、
本当にそういう体感があるんですよね。

胸から足のつま先、手の指先までキーンと電気が走る。
その感覚が嫌でたまらないのに、
一度その感覚に陥ると1分置きにやってくる。
この感覚を自分で止めることはできません。
次々に襲ってくる寂しいという気持ち。
私は愛情と環境にこんなにも恵まれているはずなのに。

こういう感覚に陥るようになったのはいつの頃からなのか。
思春期ならではのものだったのでしょうか。
中学生頃には頻繁にこの感覚に襲われていた気がします。

主人の愛情はとても心地のよいもので、
主人と一緒にいるときの自分が好きでした。
こんなにも寂しくなくて、
伸びやかな気持ちになれたのは、
初めての経験だった気がします。

「人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。
しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、
意外と言えるのではないだろうか?
逆に、別の誰それといるときの自分は嫌いだとも。
そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、
そこを足場に生きていけばいい。」

私は主人に出会ったことで足場ができ、
それを土台として、徐々にその足場を広げてきました。
最初の足場は主人との分人だけ。
その後、大学に入学して友人との分人が増え、
ピアノ指導者になり、
生徒さんや生徒さんの親御さんとの分人が生まれましたが、
それらの分人はどれも好きです。

自分に肯定的になれるということは、
自分の素材に肯定的になれるということですね。
その素材は長所だけでなく短所も含みますが、
そのどちらも受け入れられるようになる。
自分のよいところも悪いところもひっくるめて、
これが私なのだと素直に受け止めることができるようになる。

そこには卑屈さがありません。
卑屈さを抱えた人は、
誰と関わるときも、どの分人においても、
相手が自分をどう思っているか?
ということばかりが気になるものですよね。

私はそうでした。
人の目ばかりが気になって、
あの人はいいなぁ・・・、
そんな羨みをたくさん抱えていた気がします。
今は不思議と人を羨むということがありません。
私は私と思えるようになりました。

自分が相手にどう思われるかということより、
その人と気持ちよい時間を共有しようという思いを
大切にすることで、気持ちのよい分人が増えていく。
そんな気がしています。

『私とはなにか「個人」から「分人」へ』
わかりやすく書かれた薄い本で、
小難しい本ではありません。
お勧めの一冊です。


クリックで応援してネ♪
にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ  


emksan at 23:10│TrackBack(0) 読書 

トラックバックURL