2013年09月25日

言葉にとらわれない

私は”言葉”が大好きです。
考えるという行為には言葉が伴うものですが、
考えるという行為も大好き。
こうして考えたことを整理するために、
文章を書くことも大好きです。

でもその反面、言葉では言い表せない、
”体感”も大切にしたいと思っています。
音楽上のことだけでなく、人生そのものにおいて。


「発達障碍って、どんな障碍ですか?」


この質問に言葉で答えるのは、本当に難しい。
どんなに長い文章を用いても、
この質問に答えることはできないと感じるからです。
そもそも、この障碍をいくつかのカテゴリーに分けるというのは、
無理があるのだろうとすら思います。

ひとくちに自閉症といっても、
自閉症スペクトラムという枠組みの中に、
さらにいくつかのカテゴリーがあり、
それぞれのカテゴリーの線引きがどこにあるのか?というのは、
私にはわからないんですよね。
医学的にはそれなりに線引きがあるのだろうと思いますが、
それでも絶対的なものではないのだろうとも感じます。

知的障碍で自閉傾向がある子と、
自閉症と診断されている子の線引きはどこにあるのか?
広汎性発達障碍の子との線引きはどこにあるのか?
多動の傾向がみられるという診断と、
多動症と診断されている子の線引きはどこにあるのか?

言葉というのは、ある枠組みを形成するものですが、
私たちはその枠組みに、
拠り所を求めやすいのではと感じます。
一体これは何なのか?
それを指し示すための”単語”という枠組みが欲しい。
その何者かに単語が与えられると、
それそのものについては理解していなかったとしても、
何らかの安心感を得る。

こんなことを考え始めた理由は、
平野啓一郎著『決壊』を読んだからです。
理解できない存在(この作品中では無差別殺人を犯す犯人)に、
「私たち一般の人間とは違う」という枠組みを与えないと、
不安でたまらなくなる。
だから、理解不能な無差別殺人という行為を犯す人に、
精神病という理由を与えたくなる。
何らかの枠組みを与えたくなる。

平野啓一郎氏は他の作品においても、
「言葉」について語ることがあります。
作品中の人物が「言葉」について語ることがあるんですよね。
言葉になったとたん、何かが失われてしまうといったような。

言葉というのは、
自分の認識を確認する作業において、
必要なものではあるけれど、
それと同時に”体感”という直接的な感覚を、
奪ってしまうものなのかもしれません。

小学1年生の子にレッスンをする。
「小学1年生」という枠組みに生徒さんを入れて、
生徒さんと接してしまう。
小学1年生なのだから、これくらいの理解力があるだろう。
小学1年生なのだから、これくらいの精神年齢だろう。
この枠組みがあるお陰で、
どうレッスンすべきか考えやすくなる。
そう思い込むというような。

でも、これってすごく漠然としたことで、
言葉で人と接し、
言葉で人を判断しているということなんですよね。
そこには直接触れ合った”体感”がないということ。
人対人という関係性が薄れてしまうように感じます。

生徒さんの年齢を知ること、
生徒さんの障碍名を知ることに、
どれだけの意義があるのか?と、いつも思います。
これらの枠組みが私のレッスンに影響を与えるということは、
ほとんど皆無に近いからです。

年齢や障碍名を知らなくても、
接していればその子の理解力、精神年齢、
身体能力、性格を把握することはできます。
逆に、枠組みに入れて生徒さんを見てしまったら、
見えないことが山ほど出てきてしまうでしょう。
”体感”を通した付き合いに、
反応が鈍くなってしまうからと思います。

会話においてもそうですよね。
相手の言わんとしていることを、
言葉尻だけを取り出していたのでは、
会話は成り立たないだろうと思います。
相手の使っている単語の意味を、
いちいち吟味しながら会話していたのでは、
話が進まないというか・・・。
いくらでも非難、批判する材料は見つかることでしょう。

私は発達障碍児と深くかかわり合ってきているので、
障碍に詳しいと思われがちなのですが、
実は、障碍についてはたいして詳しくありません。
医学に従事している人のような知識が、
発達障碍児のレッスンや日常の関係性において必要かというと、
必要ないことの方が多いからです。
人間関係を築き上げる上で、枠組みはいらないと感じています。

確かに自閉症スペクトラムのような障碍の場合、
多少の知識は必要と思いますが、
そこから関係性を発展させ育んでいくのは、
直接関わり合うという”体感”であって、
障碍名に対する”知識”ではないんですよね。

そのため、こんな風に文章を書くのが大好きな私には、
”単語”への拘りが不足しているところがあります。
私が拘りを感じるのは、単語そのものというより、
文章のリズムや響きであって、
その単語の意味をどう捉えるか?という点ではないんですよね。
哲学では「知覚」と「認識」という言葉を、
どういう意味合いで使うのか?といったところから議論し、
話を進めていくようですが、
私にはそこまでの拘りがないというか、拘れないというか。

とはいえ、単語というのは誤解を招く原因にもなってしまうので、
その点難しいなぁと思ったり。
今回、発達障碍とピアノについて対談するという機会をいただきました。
昨日そのCDが届いたので聴いてみたのですが、
単語に対する私の拘りのなさが、表出していることに気づきました。
拘りがないにしても、
かなり重要な間違いだったんですよね。

こうして文章を書くときは、
読み直し、訂正し、ある程度整理してからアップロードするのですが、
対談は時間の経過のまま表現されてしまいます。
ちょっとした間違いも、
話に夢中で気づかないまま語ってしまっていることがあるのだなぁと、
初めて気付かされました。

私の単語の間違いはとても重要で、
ちょっとした言葉尻の間違いとは言えないものだったので、
誤解を与えてしまいかねません。
早速、訂正を依頼させていただきました。
対談なのでCDそのものを訂正するわけにもいかず、
すでに郵送の準備が整っているということで、
他の方法で会員の方々に訂正を伝えていただくことになりました。
この一件で、対談の難しさを、ひしと感じました。

とはいえ、今回の間違いは、
私が障碍名や症状という単語に固執して、
発達障碍児と付き合っているわけではないということを、
改めて再認識する機会ともなりました。
障碍名や症状という単語は、
社会においては必要な単語だろうと思います。
行政支援を受けるためには必要なものでしょうし、
そういう障碍があることで、
社会で生きにくさを感じている人がいるのだということを、
多くの人が知る上でも必要な言葉と思います。
しかし、1対1の直接的な関わり合いにおいて、
枠組みは必要ないのだということ。

レッスンにおいて、
「どう表現したいのか?」
「技術をどう伝えるのか?」といったことを、
私は必死で言葉で表現しようと試みます。

レッスンに限らず、本を読み、
表現するための語彙を増やしていくことは、
「この楽曲をどう演奏したいのか?」
という漠然としたものを、具体的なものにするため、
私自身にとっては必要なことなんですよね。
言葉にすることで、認識が強まるので。

言葉と体感の間には、
相互関係があるように思います。
体感することで理解が深まることもあれば、
体感を言葉に置き換えることで、
無意識だった体感を意識できるようになることもあります。

レッスンにおいても、
自身の演奏においても、
人生においても、
直接的な”体感”を大事にしながら、
言葉と付き合っていく。
そのバランスなのかもしれません。


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emksan at 15:08│TrackBack(0) 音楽/その他 

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