2013年09月24日

表現の自由と教えることの兼ね合い

10年以上前になりますが、
私のところにある程度弾けるピアノ経験者が
ちょこちょことやってきていた時期のこと。

ドビュッシーのアラベスク第1番を持ってきた人がいました。
彼女の演奏は「う〜む。」と頭を抱えてしまうような、
ガタガタとした激しく荒い演奏でした。
そこで冒頭部分について、
「ここはどんな風に感じてる?」と質問したところ、
「花火が打ちあがっている感じ。」との答え。

そりゃないでしょ・・・という答えですが、
当時の私は「そりゃないでしょ」とは言えなかったんですよね。
表現の自由と教えることの兼ね合いがわからず、
思考錯誤していた時期のレッスン。
どう考えてもこの楽曲にそぐわないイメージを、
表現の自由を尊重した上で訂正するには、
どうしたらよいのかがわからなかったのです。

とりあえず、そのへんてこりんなイメージを受け入れ、
それとなくお茶を濁す感じで訂正していく・・・。
そんなレッスンになったのではなかったか。
生徒さんの表情に、私への不信感が現れたのがわかりました。
もちろんその生徒さんが長続きするわけもなく、
あっという間に辞めていきました。

今なら楽譜に書かれている「p」の記号、
1小節に渡るスラーなどに着眼してもらい、
イメージを再構築するための
材料や視点を提供するというレッスンをするところですが、
当時は楽譜から気づきを得てもらう、
という視点が私の中になかったんですよね。

この曲はどういう曲なのだろう?
イメージは生徒さんの自由ですが、
イメージするための素材に不備があったなら?
その楽曲とかけ離れたイメージになり兼ねません。
生徒さんの自由な表現やイメージを尊重しながらレッスンするには、
まずは、その楽曲の素材を知る必要があるんですよね。
素材を知った上で、自由にイメージしてもらう。

あの頃は、表現の自由とは何なのか?がわからなくて、
毎日悩んでいたように思います。
幼児教育出身の私には、
生徒さんの自由を尊重したい、
生徒さんの自主性を育みたいという、
強い強い信念があったので、
教えなければならない技術や知識と、
尊重すべき自由や自主性を、
どういうバランスで指導したらよいのかが、
わからなかったんですよね。

このバランスを自在に操れるようになったのは、
楽譜を読み込む力が、
ある程度身についてからのことと感じています。
ただ記号を読むということではなくて・・・。
楽譜を読みこめば読みこむほど、
イメージはどこまでも飛翔し
自由になれるものなのだと、
実感できるようになってからのことです。
楽譜を読み込む先にあったのは、
束縛ではなく自由だったんですよね。

それからのレッスンは、
生徒さんに気づきを与えることが、
重要なテーマとなりました。
「こう表現しなさい」と押し付けるのではなく、
楽譜から気づいてもらうということ。
これだけのことで私が与えたわけではない、
生徒さんの生徒さんによるイメージが
確固たるものとなるからです。

何故ここにクレッシェンドが置かれているのか、
音はどこへ向かっているのか、
ハーモニーはどのように変化しているのか、
楽曲構成はどうなっているのか・・・etc.
これらを知ると「ここはこんな風に弾きたいな。」と、
具体的なイメージが自主的に持てるようになるんですよね。
しかも、へんてこりんな明後日方向のイメージではなく。

楽曲を読み込んだ上で、
「ここはどういう音色で弾きたい?」と尋ねてみる。
楽曲を読み込んだ上であれば、
クリアな音色で弾くのでも、
ソフトな音色で弾くのでも、
どちらでも構わないんですよね。
生徒さんの解釈の自由です。
読み込んだ上でのことなので、
へんてこりんな演奏にはなりません。

楽譜には大抵大まかな強弱記号しか書かれていませんが、
そこには様々なアーティキュレーション、
様々なフレーズやハーモニーが交差し合っているわけで、
一律すべて同じ音量で弾くわけではありません。
強弱記号が書かれていないから、
強弱について何も考えずに弾いてよいものなのか?
そうは思わないんですよね。
解釈の自由は、こういうところにも込められています。

一体この部分は、全体のどういう部分にあたるのか?
どこに向かっているのか?
素材同士はどのように絡まり合い、
フレーズ同士の関係はどうなっているのか?
どこに頂点があるのか?

読むべきことはたくさんあり、
読めば読むほど、
ああ弾いてみたい、こう弾いてみたいと
希望がワンサと出てきます。
何も感じなかったところ、
適当になんとなく表現してる風に弾いていたところが、
「私はこう弾くぞ!」という思いが強くなり、
説得力ある演奏に様変わりします。

表現の自由、自主性というものは、
「気づき」から得られるものなんだなぁと、
今では思っています。
気づかないから他人に委ねてしまう。
「どう弾いたらよいですか?」
気づかないから他人に答えを求めてしまう。
「どう弾くのが正解ですか?」

気づきを与えることのできる指導者でありたい。
いつの頃からか、そう強く思うようになりました。
気づくということは発見するということ。
発見ってワクワクすることだなぁといつも思います。

幼児の感性が瑞々しいのは、
生まれて間もない幼児にとって、
世の中のどれもが目新しく発見することばかりだから。
そういう瑞々しい感性を、
自分の中にずっとずっと持ち続けていけたならと思います。


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emksan at 13:18│TrackBack(0) ピアノ/レッスン 

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