2013年09月19日

自分を生きるということ

とりとめもない話になってしまいそうだけれど、
平野啓一郎氏の本を読んでいると、
この人の作品は短調なんだよなぁと、
過去の自分を思い出します。
特に「あなたが、いなかった、あなた」を読み、
「決壊」を読み始めた今、
過去の自分と重なることがたびたびあります。

胸を締め付けられるような、
臭いものには蓋をしろとでもいうかのように、
後ろを振り返らずに生きてきた私に、
過去を突き付けられているような。
10年前の私であれば、
本を読むことをためらい、
頁をめくる手を止めたかもしれません。

小学中学年頃から20代にかけて、
私の人生は短調でした。
傍から見たら長調の明るい響きに包まれているように
見えたかもしれませんが。

短調に感じる翳り。
初めて短調の旋律に胸を締め付けられたのは、
「小さい秋」と「ドナドナ」でした。
何故かこの2曲は強く印象に残っているのです。
歌詞の意味がわかるわけもなく、
翳りある旋律に吸い寄せられていました。

小学低学年の頃、
短調のメロディが大嫌いでした。
短調の翳りに吸いこまれそうになることへの恐怖。
胸をギュッと締め付けられる苦しさは、
幼い私の小さな胸に堪えられるものではなかったのだろうと思います。

いつの頃からか短調が好きになりました。
思春期に惹かれて読んだ本も、翳りのあるものばかり。
翳りに吸いこまれそうになることへの恐怖よりも、
自分に内在する翳りと同期させることのほうに、
夢中になっていたように思います。
すでに翳りに吸いこまれていたからなのでしょう。

思春期の私は自分の人生を、
”生きる屍”と表現していました。
もちろん自分の胸の内だけで。
「私は生きる屍だ。」
このまま生きていて何になるというのだろう?
私は私の人生を生きていない。

世の中の誰もが、
自分の役割を演じて生きているように感じていました。
母は世間が理想と思う母親を演じ、
私は母が理想と思う子どもを演じるというように。
これは本当の私じゃない。

自分の人生を守りたい。
自分自身を守りたい。
突然私を襲った衝動は、
家族にとっては青天の霹靂でした。
私はとても真面目でいい子。
母親にとっては理想的な子どもだったのですから。

周りを翻弄し、
自分を守るつもりで周りに翻弄され、
誰にも理解されず、
自分らしい人生を歩むことが許されず、
自分の力では立ち直れないほどズタズタになっている私を見て、
何人かの人がこう言いました。
「恵美子は不器用なんだよ。」

平野啓一郎氏を知ることになったNHKの対談。
この人の作品を出版順に読んでみたいと強く惹かれたのは、
「自殺する人は生きることに貪欲だから」
と語られていたからでした。

思春期の私は、
生きることに貪欲だったのだろうと思います。
周りから不器用だと思われていたのは、
周りに合わせて生きようとするのではなく、
なんとしてでも自分の人生を歩みたいと、
自分を貫こうとする行為に対してだったのでしょう。

私を生きるとはどういうことなのか?
私は、私の理想を生きたいと思ったわけではありません。
何か夢があり、その夢を実現させたいと思ったわけでもありません。
ただただ、素のままの、ありのままの自分で生きたかった。
誰かのために自分を演じるのではなく、
私という存在を実感し、
人生の一歩一歩を自身の足裏に感じながら生きたかった。
自分の力で自分の人生を開拓したかった。

私が私を生きていないと感じていた頃、
私は自分に偽善を感じていました。
「私は偽善者だ。」
自己嫌悪の塊でした。
誰かが喜ぶような行為をする。
相手は喜び「恵美子はいい子だね」と言う。
それを耳にするたび、
偽善者である自分を突き付けられたようで、
ひどく落ち込みました。

善とは何なのか?
何故相手を喜ばすことが偽善なのか?
その答えが見つからないまま、
私は私に偽善を抱き続けました。

今、私は自分の人生を不器用だったとは思っていません。
荒波に揉まれ、溺れかけた息苦しい10代、
その傷を癒すために費やした20代。
自分の人生を守るために20年近くかかってしまいましたが、
今の私には、自分の人生を歩んでいる、
私を生きているという実感、
自身の足裏に一歩一歩の実感があります。

誰と関わるときも「私は、私でいる」と思えます。
同業者といる私、
生徒さんの親御さんといる私、
生徒さんといる私、
親戚といる私、
義父といる私、
主人といる私。
すべて私です。

何故だろう?何故そう思えるんだろう?
平野啓一郎がいう「分人」という概念。
何故自分の中に内在する「分人」を、
全て自分だと思うことができるようになったんだろう?
何故、20代までの私は、そう思うことができなかったんだろう?
何故、自分の中に潜む1人1人の分人を、
偽善と感じ続けたのか?

翳に吸い込まれていた頃、
私は短調の楽曲を楽しむということはできませんでした。
同期していただけです。
そこに自分を感じ、そこに自分を投入していました。
それが慰めだとでもいうように。

今、私は純粋に短調が好きです。
幼少期に感じていた恐怖もありませんし、
同期してしまう私もいません。
そこには、響きを堪能し、愉しむ私がいます。
これは、自分の人生を歩んでいる、
私を生きているという実感があるからなのでしょうか。

私を生きるということ。
これは、物理的なことではないと思っています。
主人との時間、義父との時間、
親戚との時間、生徒さんたちとの時間。
これら全ては、
主人の時間でもなければ、義父の時間でもなく、
親戚の時間でもなければ、生徒さんたちの時間でもなく、
私の時間です。

私を生きるということ。
これは、他人から見た理想の私を生きることではなく、
自分から見た理想の私を生きることだと思っています。
他人の視線を一切含まない、
きわめて純粋な自己中心的な理想です。

こういう指導をしていれば、
人から注目を浴びることができる、
同業者に認めてもらうことができる、
こういう義姉であれば、
義妹から慕ってもらうことができる、
こういう義娘であれば、
義父に認めてもらうことができる、
こういう妻であれば、
主人に愛される。
これは全て自分をないがしろにした、
他者中心的な理想と思います。

あのとき、何故私は私に偽善を感じていたのか?
他者中心だったからではなかったか?
常に他者を意識して、
自己を形成していたからではなかったか?

こういう指導者でありたい、
こういう義姉でありたい、
こういう義娘でありたい、
こういう妻でありたい。

純粋に自分が自分に求めるもの。
それが社会的に善なのか悪なのかはわからないけれど、
自分が認められる自分であるということ。
私が私であるということは、
私と私の間に誰も介在していないということなのかもしれません。

私を生きるということ。
正確な答えを見つけることはできないけれど、
今、私は私を生きていると思えている。
そう思いながら平野啓一郎氏の本を読み進めています。


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emksan at 12:07│TrackBack(0) その他 

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