2013年09月04日

相手に自分がどう映っているのか?

昨日、私は「大人という存在そのものが、
子どもにとっては強者なのだ」と書きました。
では、大人と子どもの間にラインを引くことは、
差別になるでしょうか?

意識的に引かれたラインは、
確かに差別だろうと思います。
しかし、私たちが意識したくなくても、
自動的に引かれてしまうラインというものがあるんですよね。

例えば、先生と生徒の関係。
どんなにラインを引きたくないと言っても、
「先生」という教える役割、
「生徒」という教わる役割、
それぞれの役割がある以上、
自動的にラインは引かれてしまいます。

私は、この自動的に引かれてしまった
生徒さんと私の間にあるラインを、
生徒さんや親御さんたちが意識し過ぎないよう、
心を尽くすようにしています。
特に、本を出版してからはなおさらでした。
相手から見たら私は、
「本を出版しているピアノの先生!」であり、
こちらがどんなにラインを消そうとしても、
一歩も二歩も私から身を引き、遠慮されてしまうからです。

これは大人と子どもの間にあるラインでも同じこと。
子どもにとって大人は、
自分より多くの物事をわかっている、
自分より体が大きい存在。
その上、自分を守ってくれる存在です。
大人が意識しなくても、自動的にラインは引かれているのです。

このように、先生と生徒、大人と子ども、
これらは必然的に強者と弱者に分かれていると、
私は感じています。
こちらが意識したくなくても、
自動的についてきてしまう強弱の関係です。
このとき私が大切にしているのは、
強者側に立った私が、


”相手から自分はどう映っているのか?”


を想像するということです。
必然的に自分より弱者となる生徒さんや子どもに、
自分がどう映っているのか?を想像することなしに、
相手を尊重することは無理と思うからです。

必然的に引かれてしまったラインを無視し、
1人の人間としてお互いを認識し、
お互いを尊重し合うためには、
必然的に強者となってしまった側の人間が、
あなたを1人の人間として尊重し、受け止めています、
と発信する必要があるでしょう。

強者側からこのような発信をするまでは、
生徒さんや子どもは先生や大人を、
自分より強い役割を担った存在として、
相手をけん制することでしょう。
また、強者から自分を守ろうという意識も働くことでしょう。
これでは、お互いに尊重し合うという関係を
築き上げることができなくなってしまいます。

昨日『子どもを批評する大人たち』で私が書いた、
大人としての自覚を持つことというのは、
子どもを差別するという意味合いで書いたものではありません。
相手から自分がどう映っているのか?と、
想像力を駆使する必要性を訴えたものです。

子どもから大人である自分がどう映っているのか?
好むと好まざるとにかかわらず、
強者として映ってしまうことの必然性。
子どもにとって大人は必然的に強者に映る、
ということを知っておくということです。

子どもを知ろう。生徒さんを知ろう。
相手を尊重するために、
相手を知ろうと思うことはとても大切なことですが、
それ以前に、相手に自分がどう映っているのか?
相手にとって自分はどういう存在なのか?
それをしっかりと受け止めておくことが、
その第一歩なのではないだろうか?とも思うのです。

自分がどんなに強者にはなりたくない、
周りにいる全員と対等で、
みんなと同じ立ち位置で差別なく過ごしたいと思っていても、
必然的に強者という立場に立たされていることがあります。
それは与えられた役割から自動的に発されてしまうことで、
自分にとっては不可抗力の相手側からの認識です。

相手に自分がどう映っているのか?
私という人柄を相手が知る前に、
必然的に私に与えられた役割から、
相手が認知するであろう私を、
私がどこまで想像して、
相手を慮った対応ができるか。

相手を尊重するということは、
自分を知るということなのかもしれません。
相手に自分がどう映っているのか?
それがわからなければ、
相手を尊重し、相手を慮る言葉は見つからないでしょう。

人は自分でも気づかないうちに、
相手を傷つけ、人を差別していることがあります。
自分に差別という意識がなくても、
相手に差別されたと受け止められることもあるでしょう。
それは、想像力の欠如から生まれることなのではないでしょうか。
相手から自分がどう映っているのか?という想像力の欠如。

私はあなたとの間にラインを引いていない。
私はあなたを尊重し、あなたと私は同等の立場だ。
と、どんなに相手に訴えたところで、
相手が自分を強者と認識しているうちは、
それは”願い”でしかなく、
現状はその願いの真反対の状態を呈しているのです。

これは日常生活のあらゆる場面で遭遇することですね。
誰もが、相手によっては強者となり、弱者となり得るのです。
相手が自分より強者であると感じると、
人は相手をけん制するものです。
相手から自分を守ろうとします。
相手から一歩も二歩も身を引こうとします。

親戚づきあいでも、同業者同士の付き合いでも。
たとえ、役割が与えられていない、
もともと対等の立場で出会った関係だったとしても、
お互いの性格によっては、
相手が強者として映ってしまうこともあります。


意識的に自分から生み出す差別
自分が認識していないからこそ生み出される差別



差別には2種類あるのかもしれません。
人に”強い”と思われがちな人は、
人から自分がどう映っているのか?ということを、
よくよく想像した上で言葉や行動を選ばないと、
後者になる可能性があるのかもしれません。

ラインは引きたくない。
そう願っていても、相手が自動的に引いてしまうライン。
そのラインの存在を目立たなくする、
もしくは、なくすためには、
強者と認識された側の人間が、
強者と認識されている自分を想像することなのでしょう。


大人は、そのままで大人です。
何もしなくても大人です。
子どもは、そのままで子どもです。
何もしなくても子どもです。
大人と子どもの違いは、
私たちがなんの働きかけをしなくても生じています。
存在そのものが大人であり、子どもなのだから。

子どもに子どもらしさを求めたり、
生意気だと批判などしなくても、
大人は大人なんですよね。
何の働きかけをしなくても、
すでに弱者と強者いう関係は成り立っているのです。

大人という存在そのものが、
子どもにとっては強者なのだということ。
今、その当たり前のことが見過ごされているように感じます。
                     (昨日のブログ記事より)


クリックで応援してネ♪
にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ  


emksan at 10:50│TrackBack(0) その他 

トラックバックURL