2013年01月11日

人それぞれの『音楽家』

先日、私はこんなツィートをしました。


昨年樹原先生のツィート「音楽家として子どもに真剣に向かいあいたいと思う。」発達障碍の生徒さんも、趣味で習う生徒さんも、大人も子どもも関係なく、指導者である以前に”音楽家”として自己の音楽追求を失わずに、関わり合っていきたいと思う。これは指導法以前の問題なのだろうと思ふ。


ここに、私の考える『音楽家』という言葉の解釈を加えたいなぁと。
何故ピアニストでもない私が、
音楽家として生徒さんに向かい合えるのか?
何故それが指導法以前の問題だと思うのか?

ピアノ指導者の多くは、私もそうですが、
ピアニストではありません。
そのため、私は1時間半以上のプログラムを演奏し、
いくつかのプログラムのため、
膨大なレパートリーを維持し続けるなんてことはしていませんし、
なによりそんな許容量は私にはありません。無理です・・・。(^_^;)


クラシック演奏家に必要な資質


昨年2月に書いたブログ記事ですが、
私にはここに書かれた資質が足りないんですよね。
足りないだけでなく、
そこまで厳しい人生を欲していない自分もいます。

このブログ記事に、
私の考える『音楽家』としてのスタンスについて書いているように、
私のスタンスは演奏家のスタンスとは違うものです。
演奏家のスタンスはそんなに甘いものではないですから・・・。

ただ、そこには「自己の音楽を追求し続ける」という
共通のものがあるのではとも思うんですよ。
音楽性がないのに指導するなんて無理ですし、
感性は刺激がなければ廃れていくものですよね。
音楽の奥深さを実感できていなければ、
それを生徒さんに伝えることもできません。

私は、ピアノ指導者になってからというもの、
レッスンすればするほど自分が枯渇していくという感覚を
味わい続けてきました。
完全に枯渇してしまったら、
レッスンはできなくなるのだろうと思います。


横にいる先生の言葉、しぐさ、
指から奏でられる響き、
先生の全てから溢れ出る音楽のシャワー。


私の考える理想的なレッスン。
こういう指導者でありたいといつも思います。
そのためには、私自身が音楽に満ち溢れている必要があるんですよね。
私が枯渇してしまったら、
生徒さんに何の影響も与えることができなくなってしまいます。
レッスンから音楽という魅力がなくなってしまう。

気分がどうしても乗らなくてピアノが弾けない時期があります。
そんなときは、本を読んだり、音楽を聴いたりして、
自分を育むことにしています。

練習したくても練習時間を作れない時期があります。
そんなときは、10分でも見つけたら練習します。
こういう10分は、とても効果的な練習になります。

本を読む気になれない時期があります。
私にとって、読書は音楽と密接な関係があり、
自分を育むために必要なことです。
それでも、どうしても読む気になれないときは、
ピアノを弾いたり、音楽を聴いたりしています。

CDではなくコンサートに出かけることを大切に思っています。
素晴らしい演奏との出会いは、
1000回CDを聴いても、
1000回レッスンを受けても決して得られないだろうことを、
私に与えてくれるからです。

美術館が大好きです。
絵画は音楽より具体的です。
具体的なものを目にすることで、
私の感性が刺激され、表現の引き出しが増えていきます。

音楽は絵画より直接的で、
私の五感に直に働きかけてきます。
絵画で得た具体的なものを、
五感に訴える直接的なものに置き換えていく。
そんなことを自在にできるようになったなら・・・。

ピアニストでなければ音楽家とは言えないとか、
ピアノの練習を何時間以上しなければ音楽家とは言えないとか、
私はそんな風には思えません。

毎日ピアノを6時間練習する人がいたとして、
その人が自己の音楽を追求しているわけではなく、
ただ義務として割り切って練習しているのだとしたら、
果たしてその人を音楽家と呼べるのかどうか・・・。

音楽のジャンルは関係なくて、
楽器も関係ないなぁと思います。
これはピアノだけでなく、ほかの楽器にも言えることと思うからです。
自分はどういう音楽を求めているのか?
自分の求める音楽を追求し続けるということ。

ピアノに向かっていて、
いつの間にか6時間経っていることがあります。
こういう日の練習は、
長時間にも関わらず神経が研ぎ澄まされた、
いい練習になります。
自分が心底求めているからこその練習。

このブログを開設して10年近く経ちますが、
私のブログ記事は基本とても真面目です。
遊びがないというか・・・。
そのため、10年前の私は60過ぎの男性とよく間違われました。(笑)
顔が見えないネットならではの誤解。

言葉を柔らかくしてみたり、崩してみたり、
文字の色を変えてみたり。
昔の記事を読むと今の文面とカラーが違くて、
違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。(^_^;)

こんな風にいろいろと文面を変えてきたのは、
真面目すぎる私の学びの姿勢が、
人に威圧感というか、
焦りを感じさせることがあるようだ、と感じていたからです。
実際、ピアノ指導者を目指していた私の生徒さんは、
私の学びのスタンスに焦りと圧迫を感じて、
このブログを読めなかった時期があります。

このブログ内カテゴリの「ピアノ/練習&勉強」は、
自分の頭の中を整理するという意味合いで書いているのですが、
(最近は過去の学びを振り返るための記録としても重宝しています。)
どうしても人に焦りや、
「こうあらねばならない」という圧迫感を与えてしまうようです。

でも、これは私が私に求めていることであって、
他の人に求めていることではないんですよね。
そのスピードや量、方法論は人それぞれと思うのです。

私は人生に「メリハリ」をつけたいと思い続けてきました。
なぜなら、頑張り続けるということができないタイプだからです。
テンションを持続させるということは、
私にとってとても難しいことです。
やるときはとことんやる。
やらないときはとことんやらない。
そんなメリハリが私にとっては大切なことでした。

このブログ記事の題名は”人それぞれの『音楽家』”です。
学びの方法は、自分が求めている音楽によって変わってきますよね。
求める音楽は人それぞれ。
学びの角度も方法も人それぞれ。
その上、その時々の生活環境や精神状態によって、
学びのスピードや量は変わってくるはずと思います。

それでも、自分の音楽を追求し続けている限り、
私たちは『音楽家』なのだと思うのです。


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emksan at 09:00│TrackBack(0) ピアノ/練習&勉強 

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この記事へのコメント

1. Posted by しぶかう   2013年01月11日 13:19
偶然です〜。
この1ヶ月くらい、自分が音楽家に足の先が入れたような気がしてきていて、「音楽家」についてちょろりと考えていました。
演奏家ではないけれど、音楽家。
音楽を主食にして生きている感じ。

先生のブログが読めない云々も、前からいつか記事にしよかなと思っていることです。
もちろん、色々苦しかったころなので、先生のブログに限ったことではないんですよ(^^;)不器用ですよねぇ
2. Posted by 中嶋   2013年01月11日 13:51
しぶかうっちのこれからのブログ記事が楽しみ♪
私も不器用だから、しぶかうっちの苦しみ、よくわかるよ。
誰もが経験することなんじゃないかなと思ったり。
音楽は音を楽しむと書くけれど、
幅が広く奥が深いことが見えてくれば見えてくるほど、
乗り越えなければならない厳しさに直面することもあり・・・。

自分を見失わないためには、
周りを見ないようにする、というのも手なんだよねぇ。
私は普段からあまり周りを見ないようにしてるし。
ネット徘徊はしすぎると、精神衛生上よろしくないのよね。(笑)
刺激を受けたり、刺激を遮断したり。
そのバランスだよね。