2012年11月15日

バロック音楽における解釈ってどういうこと?

ある方が、バッハの解釈というものがわからないと
おっしゃっていました。
それは絶対的なものなのか?と。
プロのピアニストの演奏はみんな全然違うではないか?と。
絶対的な解釈は本当に存在するのか?
何故コンクールだと解釈がどうのと言われるのか?

ということで、この方にお伝えしたバロック好きな私の見解を
ブログ記事にすることにしました。
(議論するつもりはないので、ご了承ください。)



解釈という言葉が語弊を生むのかもしれませんね。
バッハは他の作曲家に比べて、解釈が自由にできる作曲家だからです。
バロック音楽ほど自由な音楽は、クラシック音楽にはないですよ。(笑) 
当時はアレンジもされたし、同じ曲を様々な演奏形態で弾いたり、
他の楽器で弾いたりなんて日常的に行われていたし、
楽譜には強弱記号も書かれていません。

しかし、その中にあっても当時の「常識」というものはあったようです。
例えば装飾音符。
どんなところにでも自由に好きな装飾音符を付けていいというわけじゃぁなかったみたい。
バッハはインベンションでそれを生徒に伝える工夫をしています。
インベンションにはいろんな解釈がありますが、
それは弟子たちが様々に自身の解釈で装飾音符を付けているからともいえますね。
バッハは、「きみだったらどんな風に装飾音符を付ける?」という指導をしていたからです。

こういった常識は国によっても違いました。
フランスバロックと、バッハは随分違く聴こえます。
バッハはフランス人ではないので、
フランス流の常識で弾くと変な感じになったり・・・ということもあります。
私はラモーやクープランをYouTubeにアップしていますが、
バッハでは決してやらないこと、
それは8分音符のタタを、付点タータといったノリで弾くということかなと思います。

これが当時のフランス流だったからです。
これがないとどうもフランスっぽいニュアンスにならない。
ただ、コンクールでこれをやって批判されないとは言い切れません。
批判される可能性が高い気がします。
こういう当時のフランスの常識を知らない人が審査をしている可能性が高いからです。
私は子どものコンクールにラモーやクープランが使用されていることに、
かなり疑問を感じています。

次に、バロック音楽が抱える演奏者に託された解釈の重要な点のひとつとして、
どのスタンスで演奏するか、ということが挙げられるのではと思います。
もともとピアノのために作られた曲ではないからです。
バッハはクリストフォリが作成したフォルテピアノ(まだできたてホヤホヤだった時代のピアノ初期のもの)を
弾いたことがあると言われていますが、
当時できたてだったこの楽器は未熟極まりなく、
バッハはこの楽器よりチェンバロやクラヴィコードを愛しました。
ピアノという楽器が認められ始めたのは、バッハの息子の時代です。
ということで、私たちはバッハの楽譜を前にしたとき、
どのようなスタンスで演奏するか、という問題に必ずぶち当たります。

これは、チェンバロもしくはクラヴィコードのために書かれた楽譜を、
モダンピアノで演奏する上で、どの立ち位置に立って音作りするかということです。
モダンピアノでチェンバロの音を表現したいのか、
それともモダンピアノを存分に生かして表現するのか、
もしくは中庸をいくのか?中庸をいくとしたらどういう形で中庸を表現するのか?

ちなみに、私の演奏はかなりチェンバロ寄りと思います。
しかし、チェンバロでは表現できないことがモダンピアノにはあるので、
そういった良さはある程度取り入れています。
私はグールドもチェンバロ寄りと感じます。
だから、私にとってグールドはあまり驚きではなく、
かなりバッハに忠実な演奏と感じています。

私はどちらのスタンスに立っていても、
ある一定の基準を満たしていればよいと考えています。
解釈は自由。そういう時代だったのだから。
それを面白がる、楽しむ自分でいたいと思っています。

でも、確かにコンクールでは「許せない」「耐えられない」と感じる演奏も多いのですよ。(笑) 
それは何かといえば、解釈以前の問題、時代様式という視点の問題と感じます。
バロックの音楽を、ロマン派の音楽のように大きく抑揚をつけ、
ベッタベタのレガートでうねるように弾かれたら、
気持ち悪くてたまらない、というのが私の感想です。
ところが、子どものコンクールでは、このような演奏が多く目立ちます。

様式感というものをあまり重要視しない人にとっては、
流れるようにうねった音楽の方が聴き映えがするんですよね。
しかも、正直あまり技術を必要としないんです。
微妙な音色の変化、ニュアンスの変化を作るという技術がいらない上に聴き映えしてしまう。
だから、このような演奏が子どものコンクールでは多くなるのだろうと感じています。


ここからは、ちょっとバロックから離れますが、
私はこのうねるような音楽が主流になり、
ハーモニーの小さな変化、ちょっとした音色の変化、
ちょっとしたニュアンスの変化を表現しないという現代演奏の流れは、
CDに原因があると感じています。
CDを聴いていいと思った演奏でも、実際に聴くとそうではなかったり、
CDではイマイチつまらんなぁと思っていても、
実際に聴くとすばらしい演奏だったりすることがよくあります。

その大きな原因は、CDは小さなニュアンスを読みとらないということにある気がします。
音の上下幅の狭さ、臨場感のなさ、音色の微妙な変化は、
目の前で聴かないと感じ取れないことが多くあるんですよね。
まぁ、よほど高価な何百万もするような音響装置で聴いたら、また違うのかもしれませんし、
実際私は数年前に聴いていたCDを、
今のアンプで聴きなおしているところです。(コンポじゃないというだけで、安価なものではありますが。)
全く違く聴こえるんですよね。
数年前つまらない演奏と思ったCDが、すばらしい演奏に聴こえてくる。
いいなぁと思った演奏が、ウザイ演奏に聴こえてくる。(笑)

っと、話が長くなってしまいました。
本来コンクールで審査されるべき視点は、時代様式と思います。
バッハをショパンのように弾く、というのはやっぱり違う。
ピアノ指導者として、時代様式という「感覚」は大切に育んでいきたいと思っています。
しかし、解釈は自由でよいと思うんです。
ここら辺の線引きは、よほど審査する側がバロック音楽を勉強していなければとも思うので、
バロックの審査というのは難しいのだろうなぁと思います。


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emksan at 11:40│TrackBack(1) ピアノ/知識 

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1. 絶対的な存在  [ 哲学はなぜ間違うのか? ]   2012年11月15日 20:57
そういう身体を持つことが人類の生活にとって実用的だったからです。そういう理由でこ