2012年06月22日

ピアノ教育における”自立(自分の足で立って歩く)”とは?

これは予約投稿です。m(__)m
21日からパソコンへ向かえません。
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昨日、ピアノ教育における”自律”の記事で、
「音楽表現する上での”自立”に立脚していなければ、
”自律”とは言えないのでは、と感じます。」と書きました。
自律の前に自立なのです。

自律には段階があると書きましたが、
私はこの”自立”にも段階があると考えています。
第1段階は、自立できるようになるための土台、
土壌を作るということです。
幼児教育における”自由保育”は、
この考え方の上に成り立っています。

では、ピアノ教育における自立の基礎とは?
私は、ドレミという音の並びを覚えるだとか、
鍵盤を把握するだとか、
楽譜の読み方を覚えるだとかいうことにあるのではないと考えています。
正直、私は3,4歳からピアノを始めることに、
大きな疑問を抱いているのです。

音楽というものを体感したことがなく、
まだその子の体の中に音楽が息づいていない段階で、
ドレミを教えることに危機感を覚えます。
また、幼児の体の発達の一番最後にくる指を使う楽器がピアノですが、
指にまで発達が及んでいない段階で、
いきなりピアノへ向わせることへも抵抗があります。

こういう子どもはピアノを弾く楽しさよりも、
体が思うように動かない難しさの方にてこずり、
音楽を味わいながら弾くことなど無理でしょう。
表現する楽しさよりも、戸惑いの方が大きくなってしまう。
導入としてあまりいい条件とは思えません。

もちろん、全ての3,4歳が不向きだというわけではありません。
私の友人の子どもで、
3歳ですでにピアノを習う適齢期を迎えていると感じた子がいます。
友人は歌が大好きで音楽的。
この子の生活は毎日音楽に満ち溢れていました。
この子の内部には、すでに音楽が息づいていたのです。

また、この子は3歳になるかならないかで円を描いていました。
かなり複雑な絵を描くようになっていたのです。
これは体の発達が指にまで及んでいる、ということです。
心も体も、ピアノを始めるのに丁度良い時期にきていました。

このように、すべての3、4歳児が、
ピアノを始める適齢期ではないとは言い切れません。
その子の中に音楽が息づき、体の発達が指にまで及んでいるのであれば、
それはピアノを始める適齢期として考えてよい、と私は判断します。

私が考えるピアノ教育における自立の基礎は、
このピアノを習い始める前の段階のことです。
幼児教育学では、外で思いっきり子どもを遊ばせることに重点を置きます。
ルールは与えられるものではなく、
自分たちで試行錯誤しながら作り上げるものです。
重要なことは自分たちの力で工夫するということ。
誰かに教わるのではなく、自分の能力を使うということです。

こう遊びなさい、とルールを教え込んでも自立心は養えません。
自立は、自分の頭で試行錯誤し、考えるということです。
幼児期にこういった基礎を十分に培った子は、
あらゆる局面で工夫する、という発想力を持ちます。
これは、昨日お話した練習方法への発想にも繋がることですよね。
自分で考えるという基礎は、この幼児期に培われるものなのです。

私はピアノ教室の門をくぐる前に、
たくさん外で遊んでもらいたいと思っています。
遊びの中で試行錯誤することを覚え、
遊びの中で体をコントロールする術を学ぶ。
体のコントロールは自律に役立ちます。
体と心は一心同体。表と裏と思うからです。
体をコントロールするということは、
心をコントロールするということ。

その中で、ピアノを習うつもりでいるのであれば、
手遊び歌などで音楽に親しんでいてもらいたい。
体のコントロールも、外で遊ぶだけでなく、
音楽が付随した形でのコントロールを経験していてもらいたい。
音楽に合わせて体全体を動かす、踊る、飛び跳ねる!
こういう経験が、ピアノに向った時の自己表現に結びつくからです。

このような経験を積んでピアノを習い始めたピアノ導入期。
このとき多くのピアノ指導者は、ある悩みに直面します。
ピアノを弾く以上は、教えなければならないことがあるからです。
しかし、音楽表現は自由であるべきですし、
自立とは、束縛されない自己の自由でもあります。
特に私は、自由保育という考え方に大学4年間浸りまくったわけで、
教えなければならないことと自由との狭間で、
かなり悩むことになりました。

一体、音楽における”自立”とは何なのか?

ピアノを習い始めたばかりの子に、
「自由に表現して弾いてごらん。」というのは、
実は子どもにとってかなり酷なことです。
子どもは真っ白な画用紙を与えられ、
「自由に描いてごらん」と言われるのが苦手です。
そこに1本でもいい、線が引かれていたら、
それにつられて自由に描きやすい。
もしくは、真っ白ではなく色つきの画用紙であれば、
随分描きやすくなるものです。

ピアノにも似たようなことが言えます。
この絵を見て、感じたままに自由に弾いてごらんと言ったところで、
生徒さんは混乱に陥り、悩むばかり。
1音すら弾くことができない・・・なんていう子もいます。
自由って、何の引き出しも持っていない人間にとっては、
不自由でしかないんですよね。

世の中には天才と呼ばれる人がいます。
彼らは教えられるまでもなく音の高低を理解し、
その高低と音の並びや鍵盤の把握が、
これまた教えられるまでもなく理解できているのです。
指のコントロールがまだ思うようにいかなかったとしても、
彼らは自由にピアノを弾くことができる。
鍵盤上の音の高低を自在に操ることができるのです。

天才というほどではないにしても、
ピアノを指導していると素質のある子にしばしば出会います。
こういう子は1度教えてあげただけで、
音の高低、音の並び、鍵盤の把握、音符が一致します。
耳がいいので、聴き知った曲を鍵盤で探り弾きすることもできます。
しかし、それが音楽表現という引き出しに繋がるかというと、
そこは天才とは違うんですよね。
音楽表現とは?ということを教えてあげないと、
自由に音楽で自己表現できるようにはなかなかなりません。

ピアノ導入期、この不自由な世界から生徒さんを自由な世界に導くには、
音の並び、鍵盤の把握、音の高低、
楽譜の読み方などを伝えなければならなくなります。
このことで生徒さんたちは、
音楽の成り立ちを知ることになるわけです。
(少なくとも西洋音楽の成り立ちを知ることになります。)

しかし、ここにはまだ”表現”という自由がありません。
音楽で表現するとはどういうことなのか?という引き出しが、
生徒さんの中にはまだないからです。
例えば、習い始めたばかりの子どもには、
大きな音と小さな音、という発想がありません。
この存在を知らせてあげると、
子どもたちは生き生きと楽しそうに、大きな音と小さな音を味わい始めます。

音量による表現の引き出しには、
だんだん大きく、だんだん小さくというものから、
左右の音の大きさの違い・・・といったものにまで及びますが、
これら表現の引き出しが増えると、
「ここはどの表現でいこうかな?」という選択の自由が生まれます。

このように、私は音楽表現の自由には、
「どの表現でいこう?」と選択できるだけの引き出しが必要と思うのです。
表現の引き出しが全くないのに、
自由に音で表現するなんて無理ですよね。

文章を書くときに比喩というものを知っている人と、
そういう引き出しのない人との間では、
表現の自由に大きな差が生まれることでしょう。
比喩表現できる人には「ここは比喩でいこうか、どうしようか。」と、
選択の自由が生まれる。
比喩を使いこなせない人は比喩を選択することなどできないので、
比喩を使わない方法で文章を書くしかありません。
このように、自由に表現するためには、
知っておいた方がいいことが山ほどあります。

私がここでいう自立へ導くための指導とは、
生徒さんがその引き出しを使いこなせるようになるための
道筋を作ってあげるというものです。
この引き出しを使いなさいと人から指示されなければ、
引き出しを使えないのでは意味がありません。
引き出しの存在を知っているというだけでは、自由にはなれないのです。

自立へ導くには、多くの段階を経なければならないと思います。
まずは、引き出しの存在を知ること。
次に、その引き出しの使い方を知ること。
そして、その引き出しの意味を知ることです。
さらにクラシック音楽に限定すると、
楽譜の読み込み能力というものがここに加わります。

音楽表現の自由には、いくつか種類があると思うんですよ。
クラシック音楽の演奏家に求められるものは再現音楽です。
コンポーザーピアニスト(自作の曲を自演する)とは異なります。
コンポーザーピアニストは、
作曲するための引き出しを学ばなければならないでしょうし、
その引き出しを使いこなせるようにならなければ、
自由に作曲できるようにはならないでしょう。
しかし、再現音楽に必要な楽譜を読み込む能力は、
クラシック音楽の演奏家ほどは求められません。

再現音楽を担う演奏家は、
作曲をするための引き出しや、その引き出しの使い方を学ぶ以上に、
楽譜を読み込む能力というものが求められます。
私は、どちらの演奏家を目指すかによって、
学ばなければならないことのバランスが変わってくると思うのです。

コンポーザーピアニストにしても、再現音楽の演奏家にしても、
重なる引き出しは多くあります。
しかし、バランスが違ってくる。
コンポーザーピアニストに求められる引き出しの量と、
再現音楽の演奏家に求められる引き出しの量を、
どちらも同量に併せ持つことのできる人は、
本当に才能のある、キャパシティの大きい一部の人だけと思います。

ということで、ここでは再現音楽を担う演奏家にとっての、
音楽的自立に限定してお話を進めていきますが、
目の前に弾くべき楽譜があり、
それが自分の楽曲でないというだけで、
自由ではないかというと、そんなことはありません。
そこには多くの選択の自由があり、
演奏者は感銘を受ける偉大な作曲家の多くの作品に触れることで、
自己表現することが可能なのです。

しかし、そこには楽譜を読み込む能力というものが必要になってきます。
それは自由に表現するためには必要不可欠のもの。
この能力がないと自由になれない、そういうたぐいのものです。
作曲家はこう演奏してもらいたいということを、
出来得る限り楽譜に書き込んでいます。
しかし、もちろん記号ですから全てを書き込めるはずなどありません。

作曲家と演奏家の間には、暗黙の了解というものが存在している感じます。
同じ言語を使う、ということです。
この程度のことは書かなくても、演奏する人間にはわかるだろう、
と作曲家が判断したことは、楽譜には記入されません。

例えば、ワルツやポロネーズ。
作曲家がわざわざワルツやポロネーズというダンスについて
説明してくれることはありません。
ワルツはこういう踊りですよ、
ポロネーズはこういう踊りですよ、
こんなノリで、こんな風に踊るんです。
なんて楽譜には書いてありません。

例えば、拍子感。
拍子ってこういうノリのことをいうんですよ、
なんて当たり前の基礎について作曲家が楽譜に書き込むことはありません。
なにより拍子感というのは体感するものであり、
記号にすることなど無理なものでもあります。
作曲家は、2拍子と書けば演奏者はこういうノリで演奏するだろう、
4拍子と書けば演奏者はこういうノリで演奏するだろうと理解した上で、
2拍子と4拍子を書き分けるのです。

また、時代によって様式感というものも変わってきます。
例えば、バッハは楽譜に何も書き込んでいません。
当時、作曲する人間と演奏する人間は同一なことがほとんどでしたし、
チェンバロ用として作曲された曲が合奏曲として演奏されたり、
合奏曲用として作曲された曲がチェンバロで演奏されたりと、
編曲するのは当たり前のことで、
装飾音符もある程度ルールはあるにしろ、
演奏者に与えられた自由でした。

ところが、ベートーヴェンではこうはいきません。
ベートーヴェンには「こう弾いてくれ!」という強い思いがありました。
だから演奏者に誤解を与えないように、
こう演奏してほしいという記号をたくさん書いています。

このように、知っておくことというのがたくさんあります。
バッハの様式感を知っていれば、
ああ弾こう、こう弾こう、の自由度が増します。
ベートーヴェンの個性を知ろうと思えば思うほど、
このクレッシェンドはこんな感じ、
この減7の和音はこんな響きで!と想像が膨らみます。

引き出しが多いということは、
それだけ豊かに想像できるということでもあります。
選択肢は驚くほど与えられています。
だからこそ再現音楽とはいっても、
演奏者によって演奏が異なってくるのです。

このように、大きな音と小さな音、
という音楽表現の第一歩目の引き出しから、
ここまで来たらピアノ指導者になれちゃうよ、
と思えるような引き出しまで、
音楽的自立への道のりは長いものです。
しかし、地道に一歩一歩飛び級なしで(笑)、
基礎を固めていけばいくほど自由度は高くなるのです。

音楽的自立が高まれば高まるほど、
昨日記事にした音楽的自律も高まります。
練習効果や練習のやりがい、楽しさは、
自立の高まりに比例すると私は思います。
自立していればしているほど練習は楽しい!

幼児期、小学低中学年、小学高学年、中学生。
それぞれの子の発達段階に応じた、
音楽的自立の在り方というものがあるように思います。
幼児には幼児の音楽的自立が、
小学低中学年の子には小学低中学年の子の音楽的自立が、
小学高学年の子には小学高学年の子の音楽的自立が、
中学生には中学生の音楽的自立があると思うのです。

もちろん一律同じ物差しを使うことはできませんが、
それぞれの子の中で、
徐々に音楽的自立が高まっていくよう指導していくことが、
ピアノ教育における”自立”への指導だと思うのです。
そのために、私はそれぞれの時期に、
その何年後かの音楽的自立を見越した上で指導するということを、
とても大切にしています。

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