2012年01月24日

太宰治

20数年振りに太宰治の作品を読み返しました。

・ヴィヨンの妻
・桜桃
・斜陽
・人間失格
・女生徒

人間失格を読んで以来、封印してきた太宰。
自己への罪意識がとても高い太宰の作品は、
罪意識の強かった思春期の私に、
深く入り込むもので、
その世界観から抜けきれなくなってしまう恐怖があったのです。

あれから20数年。
自分を律することを覚え、
自分の精神をコントロールすることを覚え、
必要以上に自分に罪意識を感じることがなくなり、
生きることがそれほど苦痛でなくなった今、
改めて太宰を読む気になったのでした。

私には無償の愛との出会いがありました。
自己への罪意識から逃れるためには、
無償の愛が必要と思います。
太宰には、そういう出会いがなかったのでしょうか。

共に入水自殺を図った山崎富栄は、
確かに太宰を愛していましたが、
はたしてそれを無償の愛と呼べるのか。
自己憐憫、自己陶酔愛ではなかったか。


私は太宰を越えた


思春期を通り過ぎた頃、こう思ったことがありました。
太宰が越えれなかった壁を越えたと感じたからです。
自己憐憫、自己への罪意識、
それから、本当の意味で素直に生きるということが、
建て前と本音の横行する社会では通用しないという、
社会と自分との摩擦。
すべては無償の愛さえ経験すれば解消することと、今なら思えます。

共鳴し、共感し、太宰を自分の内に感じ、内に籠り、
そこから抜け出ることのできなかった私が、
あれから20数年経って、冷静に太宰の作品を読んでいるなんて、
とても不思議な気持ち。

あの繊細な感性が、自分の内から消えてしまったことを悲しむべきなのか、
あの地獄のような苦しみから抜け出たことを喜ぶべきなのか。
芸術家としては悲しむべきことなのかもしれませんが、
私は抜け出られたことに喜びを感じます。


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emksan at 14:23│TrackBack(0) 読書 

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